ロライマ州ボアビスタの日系コミュニティ=少数精鋭、尊敬される日系人2=知られざる日本人移民前史

ボアビスタに移民した初期の江田家
ボアビスタに移民した初期の江田家

 ロライマ州に入った最初の公式日本人移民は、1955年。次が1961年だ。ANIR(ロライマ日伯協会)の元会長である福田美知恵さんが記した同地の日本移民史によると、その前史として、最初にロライマ州に到着した日本人の記録として、土井カツクスさん(1915―2013)の存在がある。
 土井さんは5歳頃にサントス港に降り立った。長じてダイヤモンドと金の採掘に魅了されてボアビスタ市へ移り、飛行機パイロットや整備士として働いた。1951年にはボアビスタから北西210キロのテペケム山脈に移り、さらにその後ロライマ州北東部のノルマンディア市へ向かった。英領ギアナにも短期間住み、1970年にはロライマ州と英領ギアナの国境にある地域(現ボンフィン市)に移り、同市の創設者の一人となり、98歳でその生涯を閉じた。

ロライマ州のパイオニア日本人移民の到着

 1955年、ブラジル丸で神戸港を出港した日本人移民の一部が、パラー州のベルテラ・ゴム採取農場に到着した。数カ月の滞在後、ロライマ州政府に農業発展のために招待され、13家族がボアビスタとタイアーノ地域に移住した。
 抽選で、江田家と佃家の2家族がボアビスタに、他の11家族が州都から90キロ離れたタイアーノ移住地に入植することになった。
 ボアビスタに到着した佃家は、10年間、野菜と豆類を生産し、市場でクッキーや砂糖などと合わせて販売していた。その後、街の中心地に店を開くことを決心し、食料品をはじめ、楽器、家電、アクセサリーなど、多種多様な商品を販売する商店「ロージャ・ド・ジャポネース」を開業した。同店は現在も営業を続けている。市内の商店街の風景に溶け込み、日本人移民の存在を色あせさせずにいる。

ロージャ・ド・ジャポネースの佃千鶴子夫妻(故人)
ロージャ・ド・ジャポネースの佃千鶴子夫妻(故人)

 江田家はボアビスタ市内で園芸を始め、やがてロライマ州では未発達だった建設、リフォーム、景観設計、ガーデニングの分野に事業を拡大し、現在も親族で営業を続けている。子孫らは公職でも活躍しており、江田マサミ氏(42歳)は、2007年から2014年までボアビスタ市議会議員を務め、2015年から2019年にはロライマ州議会議員に選出された。彼はロライマ州で最初の日系市議会議員、日系州議会議員であり、当選時は「目の大きな日本人」と称されたという。
 入植当初のタイアーノ移住地は、交通網が整備されておらず、土地は肥沃でも、特に1年の半期を占める雨季には、他地域へのアクセスが遮断され、収穫された作物を販売することもできず、病気になっても飛行機で移動するしかない厳しい環境だった。
 多くが4年の契約を待たず、ボアビスタやマナウス、ベレンなどに移り、日本に帰国した者もいた。1961年に日本人移民がタイアーノに到着した時には、4家族しか残っていなかったという。この2回目の派遣団は、佐賀県出身の9家族と1人の個人、合計53人で構成されていた。(取材・執筆/大浦智子、つづく)

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