上司の州公共保安局の幹部さらに州政府の首脳も関与していた疑いが濃厚である。
となると、裏で強力な力が働いたとしか考えられない。
不自然さ以外に、州警察の検挙は、その出鱈目さが酷かった。
大量検挙の際の連行の仕方は、容疑を明示してのそれではなかった。一方的に、高圧的に、荒々しい言動で…という具合だった。
その被害者の中には、戦勝派でも何でもない人間が多数含まれていた。
地方から用事があって、サンパウロに出てきて日本人街の宿泊所に泊まっていた人、街路を歩いていた人、街角のバールでカフェーを飲んでいた人…が、突如、そこに現れた警官により、ウムを言わさず引っ張られた。
筆者は二〇一二年、あるお婆さんに会ったが、その父親は敗戦派であったにも関らず、そうされたという。
この検挙は、大掛りな狩猟で、獲物の大群を柵の中に追い込む様(さま)に似ていた。
獲物にされた人々は、わけも判らず、警官の命ずるまま動き、気がつくと、鉄格子の中に居た。
彼らの殆どが、何故自分が、ここにいるのか、見当もつかずにいた。
これは戦時中の日本人狩りと同じだった。
これまた何か裏があった筈だ。
右の不自然さと出鱈目さについては、次章以降で追究する。
決行者たちの話
ここで、この襲撃の決行者たちから筆者が聞いた事件の概要を記しておく。
二月末から三月初め、彼らはパウリスタ延長線地方からサンパウロに移動した。
そのサンパウロで、彼らをルス駅で出迎えたのが、先行していた新屋敷砂雄である。
新屋敷は十人の潜伏場所を何カ所か用意しており、そこへ連れて行った。
日高たち数人はアベニーダ・ジャバクアラ付近…ということは臣道連盟の本部から余り遠くない…牛沢鶴太郎(活動写真の弁士、芸名=沢井天城)の菜園に身を寄せた。
牛沢は、新屋敷から事情を聞かされていたのかどうか…ともかく計画のことは互いに話さなかった。(聞いていた、とする資料もある)
日高は毎日、黙って菜園に出て働いていた。
山下も仲間たちと、アベニーダ・ヴェルゲイロ七二四の洗濯店、小笠原亀五郎方に住み込み、従業員として働いていた。
主人の亀五郎は六十歳ほどで「カチカチの戦勝派」と呼ばれた人である。
襲撃計画については、新屋敷から聞かされており、ポンペイアの横山同様「そこまで決意したのなら…」と、協力した。
皆から「婆ちゃん」と呼ばれていた亀五郎夫人も、事情を知らされていた。この婆ちゃんは亭主以上に同情的で、サンパウロの案内役に、同志たちの連絡役に…と走り回ってくれた。
「今日は、本門仏立宗の集まりがあるから、数珠をつけて行けば、怪しまれない」
と、大きな数珠をかけさせ、一緒に外出することもあった。
夫婦は同宗の信者で、亀五郎は宗徒の代表を務めたこともある人だった。
十人の潜伏先は、このほかサンパウロ市内の中心部近くの由迫紋伍のレストラン黒猫、ブルックリン・パウリスタの富塚博の菜園、サント・アマーロの荒垣鎌子の洗濯店、その他が用意されていた。(荒垣鎌子は男性)
皆、新屋敷や小笠原夫婦が見つけた協力者たちである。襲撃計画を知っている人と知らない人がいた。
サンパウロへ来てから約一カ月後、新屋敷を含めて十一人は愈々計画を決行することになった。
襲撃目標は、宮腰千葉太と決まった。
宮腰を選んだ経緯は、日高も山下も記憶にない。
「我々の仲間の中の年長者が決めたのだろう」と日高は推定している。
筆者の判断では、宮腰を選んだのは、協力者たちからの情報で、終戦事情伝達趣意書の署名者七人の中では、他の六人に比較、より積極的に動いていることを知ったためであろう。
愈々決行となった。その様子は、前記の新聞記事の様な凄みのあるものではなかった。
三月三十日深夜、新屋敷が皆を宮腰の自宅まで連れて行った。
場所は、当時の高級住宅地アベニーダ・パウリスタと交差するルア・パンプローナ五一二であった。
その時の様子を、日高は「金魚のフンの様になって…歩いて行った」と笑って話す。
金魚のフンが宮腰宅に近づいた。が、入り口に人影があった。それを見た日高は、警備の刑事と直感、強く中止を主張した。
「ここで失敗したら何も出来ずに終る」
と。
認識運動の中心人物たちが狙われているという噂は、すでに流れており、護衛されている可能性はあった。金魚のフンは引き返した。(つづく)