ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(188)

 その子供を教育する学校でも、対立は生まれていた。サンパウロの女学校赤間学院では教職員、生徒、親が戦勝・敗戦両派に分かれて対立、口もきかぬ状態となった。一時は学校を潰してしまえ、というところまで行った。
 止むを得ず、両派のリーダー格の教員を、喧嘩両成敗で解雇して、漸く収拾したそうである。

 殺気立つ

 両派の対立の険悪化は次第に先鋭化して行った。
 押岩は、こう語る。
 「コロニア(邦人の集団地)は、どこでも戦勝を信じる者と敗戦を認める者の二派に、白と黒、ハッキリ別れ、殺気すら流れ始めた。(こりゃ、血を見ないと収まらないナ)と感じるほど緊迫した空気になった。
 当時の日本人は、今の日本人とは人種が違うといってよい程だった。荒々しかった。皆、拳銃を持っていて、何か争いごとになると『一発、ぶっ放すぞ』と怒声を上げるほどだった。
 後になって思ったのは、わざわざ敗戦の宣伝などしなくとも、静かにしていたら、以後の展開がアソコまで行かなかったのではないか、何のための宣伝だったのか、ということだった。
 ワシは、敗戦とも戦勝とも判断はつかなかったが、敗戦を信じるということはなかった。
 が、次第に敗戦派の数が増えて行った。
 ここで、我々を憤慨させたのが、敗戦派の間で、日本精神が崩れ始めたことだった。
 皇室を侮辱、日本人であることを恥じる言動をする者が、日に日に増えて行った。
 天皇の悪口や『皇后とマッカーサーが、どうのこうの…』といった類いのことまで口にする者が出始めた。
 子供の頃から、紀元節や天長節の度に、御真影を拝し、皇室の藩屛たるべく育てられた我々の、その時の心情は、今の人に理解して貰うことは難しいだろう。
 それだけなく藤平正義の様に『自分は日本人に生まれて恥ずかしい。朝鮮人に生まれていたら良かった』などと言い出す者すら現れる情けない風潮となった」
 この章の冒頭で殺気が流れた、と記したが、右の押岩の話の中に、それが具体的に表現されている。
 皇室に対する罵詈雑言については、ポンペイアの白石静子の妹悦子もよく耳にしたという。彼女は、こう思い出す。 
 「終戦について色々な噂が流れて皆、深刻な顔をしている時、ハイセンの人たちは天皇の写真を焼いたり、皇后は女郎をしているとか、ひどいことをしたり言っていると聞きました。
 街にバールがあり、私がその前を通ると、いつもハイセンの人たちが集まってワイワイ負けたことを喜んでいました。天皇の写真は、もう要らないと言っている声が聞こえました。二十代の七、八人でした」
 ハイセンとは、敗戦派のことで、戦勝派は彼らをハイセン、ハイセン野郎、ハイキ派(敗戦祈願派)と罵倒し、敗戦派は戦勝派をファナチコ(狂信者)、つける薬がない、と蔑んでいた。
 悦子の叔母でもある前出の橋本多美代も、こう語る。
 「ハイセンの人たちは、今でも口にできない様な皇室の悪口を言ったり、日の丸なんか、白い布を女の股に挟んでおけば、簡単にできるとか言ったりしていました。
 そんな人は死んでしまえばよい、と思いました。
 (敗戦派に対する襲撃事件が頻発した時)私もトッコウに行きたかったけれど、丁度、長男が生まれたばかりで…」
 トッコウとは襲撃の意味である。
 当時を知る多くの人々によれば、皇室に対する罵詈雑言は、敗戦派の総てが口にしていたわけではないようだ。エタ、現代用語でいえば非差別部落出身者や共産党系の人間だったという。それもその一部であったろう。   

 脅迫

 両派の感情は、憎悪も帯びるようになっていた。所によっては戦勝派が夜ごと集まり、酒を呑んでは、
 「ヤツラは国賊、非国民!」
 と罵っているという噂が流れた。ヤツラとは敗戦派のことである。
 憎悪は単に憎悪に留まらなかった。敗戦派に対する脅迫行為に化し、それが、これも本章の冒頭で記した様に、頻発した。
 敗戦派の家の壁や窓に「国賊」などと落書きしたり、大きな紙に脅しの文言を書いて目立つ所に貼ったりした。
 脅迫状が敗戦派の家に舞い込むようにもなった。その中には死を予告する文言が記されていた。(つづく)

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