以下、七章で記したことの繰り返しになる。
当時の日本人には「日本は神国であり、戦えば必ず勝つ」という民族的な信念があった。信仰にすら昇華していた。
ブラジル移民は、日本を遠く離れても、幾歳月が過ぎても、この信念・信仰を忘れることはなかった。むしろより固くなった。
人というものは祖国を離れれば離れるほど愛国心は強くなる。
彼らは、その信念・信仰を子供にも教えた。
一九三〇年代、母国から吹き込んだナショナリズムの熱風が、この民族的イデオロギーを燃え上がらせた。
戦時中の迫害に堪えられたのも、これがあったからである。
それと、日本へ帰ることが全生活の目的であった。
元々、彼らは移住ではなく出稼ぎのつもりでいた。
その思いが一九三四年の排日法、その後のブラジル版ナショナリズムによる圧迫、さらに戦時中の迫害で、より一層、強くなっていた。
特に戦時中は、国家の背景を失った人間の辛さを痛感した。やはり日の丸の下でなければ駄目だ、一旦帰国して、日本軍の進出地へ再移住をし、日の丸の下でやり直す…そういう決意に急傾斜して行った。
帰国は無論、日本の勝利を前提としての話である。日本の勝利は生きる力ですらあった。敗戦など絶対にありえない、考えられないことだった。
そういう移民が、敗戦報に強烈な衝撃を受けたのは、何の不思議もないことであった。
ところで、その敗戦報であるが。――
出所はポルトガル語の新聞、ラジオだった。殆どの邦人は、読んでも聴いてもいなかったが、内容は耳に入っていた。
耳にして強烈な衝撃を受けた。しかしながら、誰もそれを信じられなかった。
ブラジルは、日本には国交を断絶していたし、この年の六月には宣戦布告をしていた。敵国の新聞やラジオである以上、怪しいという理由付けにもなった。
ほかに、日本放送協会の海外向け番組「東京ラジオ」も日本語でポツダム宣言受諾=降伏=を伝えていた。短波の受信機の持ち主は少なかったが、内容は広く伝わった。
しかし、それ以前の大本営発表の連戦連勝報とは違い過ぎた。大本営は直前まで
「敵を本土に引き付けて殲滅する」
とも報じていた。
日露戦争での日本海海戦の前例もあり、その作戦は現実感があった。
対して敗戦報は、余りにも現実感がなかった。敵の謀略だろう、と受け止める人も多かった。
日本は勝ったンだ!
そして…ここからが重要なのだが…敗戦報が伝えられた直後、奇妙なことが起こった。「日本勝利」のニュースが流れたのである。前章末尾で触れた正体不明の日本語のラジオ放送である。
ラジオだから、かなり離れた処にも瞬時に伝わった。それを聴いた人が会う人会う人に話した。
その頃、邦人は殆どがサンパウロとパラナ二州に住んでいた。そのかなり広範囲に、この戦勝ニュースは伝わった。早いところは、当日か翌日、遅くとも数日で…。
押岩は、こう語る。
「そのラジオというのは、後から考えれば、まことに不思議な話なのだが、日本語で終戦の二、三年前から流れ始め、日本軍の無敵ぶりを景気よく放送、戦後も暫くそれを続けていた。
普通の受信機で聞けた。アナウンサーはプロフェショナルな放送ぶりで、男の場合もあれば女の場合もあった。
シンガポール発とかボルネオ発とか言っていた。ニュー・デリー、カナダ、ロンドンの時もあった。
短波の受信機でなければ、そんな遠い外国の放送は聞こえぬなどということは、我々は知らなかった。何しろ受信機は、一つの集落に一つか二つという時代だった。皆、そこに集まって聴いていた。
誰が何の目的で、そんな放送をしていたのか、本当の発信地は何処だったのか、未だに判らない。ただ、皆それを信じた」
この放送で、敗戦報で強烈な衝撃を受け〝気死〟していた人々は蘇生した。
その時の喜びと興奮は、大変なものであった。
サント・アンドレーに二〇〇九年、池田収一という人が住んでいた。八十七歳ということであったから、終戦時は二十代前半の若者であったことになる。
この老人が筆者に、こういう話をしてくれた。
「戦争が終わった時、前に住んでいたリンスへ汽車で旅をしていた。日本の敗戦報は、その途中、耳にした。
リンスでの用件を終え、今度はポンペイアの叔母を訪問すべく再び汽車に乗った。
途中の駅で停車中、反対方向から来た汽車が入ってきた。
それに乗っていた日本人が、窓から身を乗り出して、こちらに向かって叫んだ。
『日本は負けてはいない、勝ったンだ!』と…」
見知らぬ人であったが、池田を同胞と認めただけで、嬉しさの余りそうしたのである。
「正体不明の日本語のラジオ放送」を聴いたか、聴いた人から教えられたのであろう。当時の邦人の心理が、よく現れている光景である。
このラジオ放送を追う様に、戦勝記事を謄写版刷りにしたビラ、パンフレットが出回った。(つづく)