小説=流氓=薄倖移民の痛恨歌=矢嶋健介 著=137

 一つの事故に反撥して、私のとった行動がすっかり裏目にでてしまった。今更、誰を恨むつもりはないが、私の辿った半生が、どのようなものであったか、お前にだけ知ってもらいたくてこの手紙を書いたのです。お前の手元に届くかどうか解らないけど、書いたことで私の胸はすっきりしました。
 きっとどこかでお前は、元気に生きていることを信じています。 母より
 
(六)
 
 田守は固く眼を瞑った。開けてはまた瞑った。今は何も考えたくなかった。
「どう、これ持っていくかい」
 と、ダニエルはアルミ製の四段重ねの弁当箱を見せた。それは子供の頃、野良で母と一緒に食事を取った懐かしい弁当箱であった。
「貰って行くよ。それではまた」
「どこへ行くんだ」
「気の向くむくままに放浪したい」
 田守は、車を発進させた。車は国道に入った。道路は視野の限りを一直線に伸びていた。次つぎと逃げ水を踏み越えてゆく前方の路面に、陽炎が燃えている。
 
…… 往く途さだめぬ旅まくら ……
 田守は独身の頃、よく日浦たちと料亭で歌った一節を思い出していた。母の半生は何だったのか。泣きの涙でしかなかったのか。そして、俺の人生は……いや、馬鹿ばかしい。人生なんて所詮、泡沫ではないのか。このまま、車をどこか崖縁から飛翔させてもいい気味だろうな。或は、どこで果てようと、無限にアクセルを踏み続けるのも悪くない。
 彼は独りつぶやきながら、ガソリンを継ぎ足しては、西へ西へと向かった。マット・グロッソ州境から進路を北へ向けた。車はよく耐えて駆動している。日に夜をついでマット・グロッソ州都のクヤバ近郊まで北上していた。ヘッド・ライトの光束が、厚い闇の壁を辛うじて切り開く。
 道路端で、大柄な黒人が眼を細めて手を振っている。便乗させてくれという合図だ。車を徐行して近づくと男は大きな帽子を脱ぎ、それを振りながら車の前に立ちはだかってきた。
「パトロン、どちらに行きなさる?」
 男は眼を見開いて訊いた。この《パトロン》とは、物乞いの下心を匂わす敬称であり、険のある男の眼つきなどと、怪訝だが、田守は別に気にもしなかった。

最新記事