小説=流氓=薄倖移民の痛恨歌=矢嶋健介 著=129

 八重はますます泣きながら、
「だけど今話さないと、もう機会がないわ。お前の、お前のお父さんは居ないの」
と食卓に顔を埋めて肩を震わせた。
「それならどうして俺がいるんだ」
「ある日のこと、畑で働いていた私が……男の暴力に押さえ付けられて……」
 八重は途切れ途切れに語り、さらに泣いた。
 聞いて、田守は何も言えなかった。母の言葉から自分の出自の秘密を知った。気に入らない相手だったら押し付けられる前に、どうしてうまく言い逃れをしなかったのか。抵抗ができなかったのか。だとしたら男の誘惑を半ば許してしまったのではないか。その場の様子を知らない田守は勝手な想像をし、信頼していた八重に裏切られた悔しさで胸が張り裂けるばかりだった。母に向けて、あらん限りの罵声を浴びせたかったが、泣き崩れている八重をそれ以上苦めることはできない。が、今まで自分を騙し続けてきた態度は、やはり許せなかった。
 田守は友人から幾許かの金を借りて、母の家を捨てた。学業、仕事、将来について考える気持ちの余裕はなかった。あてもなくサンパウロ行きの汽車に乗り込んでいた。
 
(三)
 
 サンパウロ市に出た田守は、都心のジョン・メンデス広場の潮ホテルで二、三泊していたが、借りた金は直ぐに底をついた。職を求めて歩いてみた。顔なじみの一人もいない都会である。見ず知らずの男を、すぐに使ってくれる処はなかった。洗濯屋の見習いは、田守自身から断った。とある不動産会社を尋ねて、食い扶持だけでいいからと頼んだ。社長は篠崎という日本人で、ポルトガル語はそれほど上手でなかったが、商売は繁盛しているようだ。
 憔悴してニヒルのただよっている青年を雇うことにためらいはしたが、すっかりしょげ切っている田守の様子に同情した篠崎は、
「小使みたいな仕事だけどやってみるかい。給料は仕事振りを見てから決めよう。この事務所の奥の空き部屋に寝泊りしたらいい」
 と言って案内してくれた。
 田守の仕事は簡単なものだった。社長が出勤するまでに事務所の整理をしたり、庭の草花に撒水したりして、八時に事務所を開ける。家屋を借りにくる客を現場へ案内したり、貸家の札を貼ったり、家屋を補修、塗装する作業現場監督といったものであった。最初は同僚の車に便乗していたが、そのうちに車の運転を覚えた。案内した客はほとんどその話をまとめた。

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