小説=流氓=薄倖移民の痛恨歌=矢嶋健介 著=110

 会場を一巡するのに五〇分位かかったろうか。屋外に出ると秋の日はかなり傾いていた。
 三人は近くの食堂に入った。ビールを注文し、懐石料理がでた。野菜を多くあしらった水っぽい料理で美味しいとは言えないが、この味が京都の名物の一つらしい、と矢野は自分に言い聞かせながら箸を運んだ。食事が済むと田島は画家連中との会合があるのでと言い、矢野に千江子を家まで送るようにと頼んだ。千江子とは何十年ぶりの邂逅だし、話すことは沢山あったので快く引き受けた。
 矢野と千江子は、京都駅から奈良線に乗り換えた。電車は混んでいて矢野たちは同じ吊り革につかまりながら立っていた。振動の激しい時は二人の肩が触れ合い、乗客の乗り降りのたびに腰の辺りがぶつかったりした。千江子はその度に美しい眸を矢野に向けては、はにかむように微笑んだ。電車の騒音と乗客のざわめきの中で、二人は黙りがちだったが、心と心は切ないまでに寄り添っていた。千江子の眼はうるんでいた。
 T駅に下車すると、そこから一キロあまりで小坂村だが、小雨が降っていたのでタクシーを呼んだ。千江子を乗せた矢野はそこで別れるつもりでいたが、
「家まで送ってくださる?」
 と彼女は言った。小坂村は直ぐ見えてきた。昔と変わらぬ二〇数軒のひなびた村で、家々から薄暗い灯がちらついていた。
 比較的に新しい、こじんまりとした家の前で車は停まった。
「ここなの。遠慮する人もいまへんので上がっていって」
「家族の方は?」
「独りで住んでますねん」
 里に帰っている女性とは聞いていたが、独り暮らしとは思ってもみなかった。矢野はここで、また少しためらったが、
「ここ、兄の家ですが、夫婦で東京に移って空家になったため、私に家番を兼ねてということで、借りてますねん。親のそばにいるより自由だし、ここで週に二度お華を教えてますねん」
「子供さんはいないの?」
「娘がいるんだけど……」
 千江子は顔を曇らせ、
「私、主人に戦死されて間もなく、姑に追い出されてしまったの。そして娘だけは中津家の子だと、渡してくれないの。弁護士を頼んで裁判に持ってゆくつもりでしたが、子供がいないほうがお前の将来のためによかろうと親や友人が言うもんですから、迷っていますねん……そんなことよりお茶でも淹れましょう」

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