小説=流氓=薄倖移民の痛恨歌=矢嶋健介 著=107

「浩二も知っている女だよ」
「子供の頃に外国移住した僕に知る筈がないじゃないか」
「彼女の幼少の頃を知っている筈だ。浩二は日本を出た時十歳だったろう、わしは十二歳で五年生だった。同級にこの女がいたんだ」
「……?」鼻筋が通って色白で唇のふっくらした女、矢野は考えてみたが思い出せない。
「あの小坂村の高田千江子だよ、学校に行く時お宮の森を横切って、すこしびっこの女の子がいただろう。よく浩二の手を取って、『浩二さん早くいこ。遅れるよ』と自分がビッこのくせに引っ張るようにして校門をくぐっていたじゃないか。いつも見ていたぜ。お前には親切だったよ」
「そう言われてみれば思い出すが、あの千江子がこの女とは?」
「小坂村には美人が多いんだ。昔、天皇とか、高貴な人が逝くとその従者が一緒に生き埋めにされたという伝説がある。後の世になって過酷だということから、死者には埴輪人形を抱かせ、従者は一般人と区別して生かされたというんだ。それが小坂村ではないかとわしは考えている。大阪に出て俳優になった女性もその村の出なんだ。わしは千江子が好きでゆくゆくは求婚しようと一人決めにしていた。が、家はそれほど豊でなかったし、大学には入れてもらったが帰ったら野良にでて親父の手伝いだ。気品の上がるわけはないだろう。大学を出たおかげで軍隊に召集された時は少尉だ。部隊長ならまだいいが少尉は分が悪い。突貫といって一番先に飛び出さないと兵士はついてこない。わしはもう観念して突進したよ。その時左の股の上にぐさっと重いものを感じた。あれっ、と思ったら生ぬるい血が足を伝って流れた。わしはしっかりしていたつもりだが傾いたんだろうな。横の兵士が、『小隊長!』と叫んで駆けつけてくれた。右の腰の辺りからも出血していた。意識はしっかりしていたつもりだが、二人の兵士が担架で本部に運んでくれたのは覚えていない。後から知ったのだが、右足の付け根から左の腰への貫通銃創で、急所が外れていたので何とか助かった。その時の傷がこれなんだ」
 田島は絵の前でズボンを下げて、その創痕を見せた。臀部には臍のように窪んだ箇所が認められ、腰部にも痕があった。
「美人が見てるぜ」
 と、戦争の悲惨には触れずに矢野は言った。
「こんな残虐な戦争が終わり、平和が戻ったら彼女と一緒になるんだと心に誓っていたが、戦争の済まぬうちに千江子は遠方へ嫁いでしまったんだ。戦争で死を覚悟し、生きて夢みた結婚がお流れだ」
「今の奥さんだって申し分のない方だし、幸せじゃないか」

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