ドイツ人移民200周年=多様な分野で国発展に貢献

アーガス号船室の復元模型(ドイツ・ブレーマーハーフェン移民ハウス所蔵)(1月13日付ドイチェ・ヴェレ・ニュースの記事の一部)
アーガス号船室の復元模型(ドイツ・ブレーマーハーフェン移民ハウス所蔵)(1月13日付ドイチェ・ヴェレ・ニュースの記事の一部)

 1824年1月、ドイツ北部の港町ブレーマーハーフェンを出港した最初の移民船「アーガス号」がリオ・デ・ジャネイロに到着し、284人のドイツ人移民がブラジルの地を踏み、リオ・グランデ・ド・スル州にサンレオポルド植民地が設立された同年7月25日がドイツ移民史の公式な節目となった。
 今年移住200周年を迎えるドイツ人移民は、ブラジルの多様な文化や経済に重要な影響を与え、農業、工業、教育、文化、政治など様々な分野で活躍して発展に貢献してきた。1月13日付ドイチェ・ヴェレ・ニュース(1)(2)などが報じている。
 当時ブラジルにやってきた移民の多くは、祖国では職人や農村労働者で、工業化やナポレオン戦争の結果、困窮していた人々だったとされる。ブラジル到着後、彼らは主にリオ州ノヴァ・フリブルゴの耕地に入植した。だが土地が肥沃ではなく、基本的な設備やインフラが不完全で、消費市場からも遠く離れていたため、困難に直面。その結果、移住計画の矛先はブラジル南部に移り、サンレオポルド植民地創設で成功を収めた。
 ブラジル政府は移民たちを支援し、新しい生活を始めるための資金や物資を提供した。ドイツ移民は20世紀にも続き、第一次・第2次世界大戦後に大勢の人々が到着した。現在ブラジルには1千万人以上のドイツ系移民子孫がいるとされ、人口の約5%に相当する。
 ブラジルとドイツの交流は古くから続いており、ブラジルを「発見」したペドロ・アルヴァレス・カブラルの船団にもドイツ人がいたとされる。16世紀には、兵士であり探検家のハンス・シュターデンも当地に上陸し、チュピナンバ族に捕らえられた。彼は脱出して祖国に戻り、先住民族との冒険を記した本を執筆し、これはブラジルに関する最初のドイツ語の文学作品となった。
 ドイツ系移民の子孫は南部3州を中心に学校、病院、教会、会員制文化クラブ、協会、醸造所、写真スタジオ、新聞社などを設立し、一般社会とその文化と痕跡を残した。ビールとサッカーも特筆すべき点だ。19世紀に登場したブラジルのビール醸造所のほとんどはドイツ起源だった。
 1902年には、ブラジルサッカーの公式戦で初めて有効な試合となったサンパウロ州選手権の第一試合が、ドイツ系チームのマッケンジーとジェルマニアの間で行われた。ブラジルサッカー界で最初に活躍したドイツ出身のスター選手は、アルトゥール・フリーデンライヒ(通称エル・チグレ)、ヘルマン・フリース、ゲルマニア(現ピニェイロス・スポーツクラブ)の創設者ハンス・ノビリングだった。
 ドイツ自動車メーカーの活躍も注目に値する。ブラジルに進出し、国内の自動車産業の発展に大きく貢献した。
 今年は国内のドイツ移民にゆかりのある各地で、200周年を祝う記念行事が続々と予定されている。オクトーバー・フェストはもちろん、伝統料理のランチやクラシック音楽祭、移民史に関するシンポなども開催される。詳細については、こちらのサイト(https://www.agendaalema.org.br/Agenda.aspx)から。

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