小説=流氓=薄倖移民の痛恨歌=矢嶋健介 著=87

 三年前、私たち六家族が入植したこのカラムルー植民地は、すでに両側が開墾され、今では六〇家族の棉作地帯と膨れ上がりました。みんな日本移民の家族です。今年の初めに弟の浩二は青年会の会長に推され、放置されていた会館を修理したり、グランドの整備をしたりして頑張っています。会員も五〇余名いて、来年の汎ノロエステ野球大会には出場するんだと励んでいます。器用だし、融和性もあるので結構うまくやってるみたいで私も助かっています。
 
 ここまで書き進めてきて、律子は急に淋しくなった。今まで家庭の采配は自分が振るってきた。病魔と貧乏から解放されるために、日夜を厭わず励んできた。隆夫が家出して、二人の家庭を築こう、と言ってくれた際にも、家族の現状を慮って、折角の申し出を断わざるを得なかった。いつか、日本へ帰国するくらいの蓄えもできた。しかし敗戦国へ帰ってどうするのか。今までがむしゃらに励んだのは何だったのか。律子は、己の年齢を意識して、取り返しのつかぬ大事な何かを見失ったのでは、という気がした。それは隆夫と共にすべき人生であったのか。
 寂しさが、ひしひしと律子を取り巻いた。窓の外には、いつに変わらぬジャトバーの巨木が蒼然と碧空に伸びている。何百年、否、何千年の時空を周囲の樹木と競って生き続けてきた古株。開墾が進み、周辺の木々が伐り払われた今では競う要さえない。老兵の姿は雄々しくもあり、孤老の哀感を漂わせてもいた。
 律子は、いつまでも巨樹を凝視していた。その孤影に語りかけたいものがあるような気がしながら、その実、何も思い浮かんでこなかった。
 律子はペンを投げだした。両手を便箋の上に組み、そこへ額をうずめた。黒髪が頬を覆った。瞼が、じぃんと熱くなってくるのを覚えた。
〈終わり〉
 
 
【第2部】
 
 
(一)
 
 医師は、X線写真の黒いフィルムを、無造作に透過光へかざし、ボンヤリとしたその白斑を指先で示しながら、
「癌の疑いがありますね」
 と、ごく無感動で事務的に言った。疑いであり、決定的ではない。にも拘わらず、私は頭部を金槌で殴られたような衝撃を受けた。日ごろ頭をかすめていた、若しやという予感が、動かぬ事実として胸に迫った。唇が引きつり、暫く口が利けなかった。

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