小説=流氓=薄倖移民の痛恨歌=矢嶋健介 著=72

 山路はシャツの袖で顔の脂汗を拭きながら皆を見渡す。永く運動部長で鳴らした男である。しばらく沈黙したが、
「カデイアで沈黙していても苦痛のもとだよな。何か遊びごとでもやろう」
 と言葉をやわらげたが、もとより遊び道具などある筈もない。
「俺が皮切りに、何か一節うなるか」
 山路は壁にもたれ、『佐渡情話』の浪曲をはじめた。低い声だが嗄れていてうまい。
「ねえ、オミッちゃん。柏崎へ帰ったら私のことなど、すっかり忘れてしまうんでしょうね」
 隅の方で誰かが、かよわい娘の声をまねた。
「うまいぞ」
 皆が拍手して、沈んだ留置所の空気が少し明るくなった。くよくよすることはない。万事この調子でいこう。浪花節はやがて活弁となり、そして軍歌に変っていった。最初低かった声が次第に高くなり、所内に響きわたった。廊下に足音が近づいてきた。鉄扉の前までくると、
「静かにしろ」
 と、半黒の男が大声で威圧した。歌声は止んだが、男が去るとヤジをまじえてまた唄いはじめた。合唱は続いた。再び現れた半黒は、発砲するぞ、と怒鳴りピストルに手をかけたが、もとよりそういう行為は許される筈はない。嚇されると、余計に声を張りあげる若者たちにあいそをつかし、自らの職を呪うかのように肩を落してその場を去った。三度現われることはなかった。
 若者たちの胸の中では、俺たちは勝ったのだ、《日の丸、万才!》などと口にするものもいた。山路もその一人で、壁に錆び釘を立てて《万才、カラムルー青年団》と刻んだ。
「そんなこと、止めろよ」
 ずっと黙っていた浩二は、はじめて発言した。
「我々の勇気のある所を、団結力を奴らに示すべきだ。そうじゃないか」
 長身の山路は、田倉を、故意に見下げるような仕草で、しぶい声を出した。
「時節柄、そういう態度は慎むべきだろう」
「いや、その逆だ。この時局だからこそ、我々の心意気と勇気のある所を奴らに示すべきだ」
「我々の一昨日の行動は正当防衛として決して不利とは思えない。すぐに釈放されると思うが、署長にこれ以上悪い印象を与えては、立場がまずくなる。俺には一年や二年、カデイアに入っても挫けないだけの心構えができている。なあ山路、あまり昂ぶるなよ。自由を無くすとつまらぬ所で興奮するものだが、カデイアでは落ち付きを無くした者が真っ先に参るって言われているぞ」

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