小説=流氓=薄倖移民の痛恨歌=矢嶋健介 著=58

「俺には家庭はないんだ。いまの所は仮の住家でしかない。新しい人生を出発するためには君の助力が欲しいんだ……俺と一緒に逃げてくれないか。ブラジルは広い。どこへ行っても、二人の生活くらいは保証できる。新しい生活に踏み出すのが俺の青春なんだ」
「言っていること、よく解るわ」
 律子は立ちあがった。乱れた髪の毛をととのえ、衣服の汚れを気にしてしきりに振った。
「もう一度くり返すが、俺と逃げて欲しい。せっぱ詰まっているんだ」
「貴方のお気持、私なりに理解もでき、同情もします。でも、今すぐ、一緒に行動はできないのよ。解ってほしいの」
「そうか……よし、解ったよ」
 隆夫はそれ以上何も言わず、律子に背を向けて歩き出した。俺は自分の道を行く、と言わんばかりに肩をいからせていたが、その姿勢が律子にはかえって哀れに見えた。
 
手 紙
 
 差し出し名のない一通の手紙が律子のもとに届いた。その頃の農村は文通などということはめったになかった。あったとしても町の局留まりになるので、植民地から誰かが買物にでも出た折にまとめて運んでくるので、時には何ヵ月遅れにもなった。めったにないその封書が律子に届いたのである。
「姉ちゃん宛ての手紙を磯田さんが持ってきてくれたよ」
 弟の浩二が炊事をしていた律子にさし出した。
「誰からなの?」
 律子は、近ごろ急に成長した浩二を見あげた。
「住所はないけど、宛名の字は隆夫さんみたい」
「えっ、まさか」
 律子はわざとしらばくれた。隆夫が八代家を出たと聞かされて以来、隆夫の名が出ると知らん振りをする律子だった。
「気にかかるんだろ、早く封筒を開けたらどう?」
「余計なお世話よ」
「わが家に縁の深い人だったろう。ことに姉ちゃんには……」
「生意気、言わないことよ」
「どっちが生意気なのかなあ」
「一人前の青年になったつもりで威張った格好するんじゃないよ。馬や豚が餌を欲しがってるじゃないの。早く世話をしに行ったらどうなの」
「ぼく、そんなに威張ったように見えるのかな」

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