小説=流氓=薄倖移民の痛恨歌=矢嶋健介 著=56

「どっちがいけないか、最後まで聞いてくれよ。あの農場に落ち着いて間もなく、家族の夕食の米が不足したので母が農場主のフォンセッカから少しばかり借りたことがあった。そのことを知った親父は、なぜ前もって知らせないのだ、ものを前借りするなんてみっともない、ことに女が男にそういうものを懇願することは身を売る恥辱だ、と怒ったんだ。母に言わせれば、仕事から帰って腹をすかせている家族に夕食がないのでは可哀想だから、と弁解したら、
『大体お前は、近頃地主のフォンセッカにどうかしている』
 といきなり妻の頬を力まかせに殴りつけた。母は何も言わず家をでた。今までにも嫌がらせを言われ、頬を打たれたのは一度や二度ではない。日本にいる頃からよく言いがかりをつけて殴られていた。その度に別離を願い、実家に帰っていたものだ。

 古いしきたりに生きている両親は、婚家先での苦労はあたりまえで、夫の指図には従わねばならない。子供の将来のためにもそれがいいのだ、となだめすかされて我慢してきた。だが、このブラジルでは泣きすがって行く所もない。子供のなぐさめぐらいでは癒すことのできぬ深い心の傷だ。ことに農場主に媚を売ってるなんて疑われても、こんなボロボロの女に誰が心を寄せるというのだ。
 恵まれぬ環境に耐えながら、ひたすら家族のために努力してきたことを認められないなら、生きている甲斐もない。死んだら少しは自分の存在を解ってくれるかもしれない。死んでしまおう。そう思うと死は怖くなくなった。むしろ快感さえ湧いてきた。母はふらふらと外へでた。しばらく周辺をさまよっていたが、地主の住居と自分たちの中間にある井戸の傍まで歩み寄った。それから、夢遊病者のように何のためらいもなく井戸の中へ身を投げたのだ。
 俺は草履の片方が井戸端に残っているのを見つけた。大声で家族を呼んだ。兄弟が集まってくると巻き取り式の井戸の把手を押さえるよう命じた。俺はバケツに足をいれ、綱にすがって徐々に井戸の内部へ降りて行った。
 深さ十メートルほどの水面に母はうつぶしていた。すぐに抱きおこし、胴体に綱を巻きつけると、上方で待つ者たちに巻きあげの合図を送った。滑車のきしむ音がし、母の衣服から滴がポタポタと落ちた。それは母の涙のようでもあった。俺は井戸壁に掘り刻まれた足掛りを伝いながら少しずつよじ登った。

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