小説=流氓=薄倖移民の痛恨歌=矢嶋健介 著=23

「おかあちゃん」
 家に駆け込んだが返事がない。部屋に母はいなかった。カンテラの灯りが、ぼうっと周辺を照らしていた。炊事場にもいない。さらに裏庭へ出て、井戸の辺りから裏山に通じる小径を探した。すると、小径の向こうからとぼとぼ歩いてくる人影があった。近づくとそれは母だった。櫛を入れない髪が頬を隠し、やせ細った手は力なく垂れている。律子はギョッとした。
「今、用便に行ってたんや。何回行っても血便が少し出るだけで、お尻が絞ったみたいに痛い」
 悲痛な声だった。とにかく見つかったことに律子はほっとした。
「アメーバって、三ヵ月もすれば治るそうや。もう少しの我慢や」
 言いながら、律子が母の肩を抱くと、焼けるように熱かった。しばらく寄り添って歩いていたが、母は急に律子の手を解いて、
「あ、牛がきた。仰山の牛や。こら、そっちへいけ。早く誰か」
 と、律子を押しやり、恐怖の眼を凝らして牛の群れを追い払う仕草をした。高熱に冒された母の譫言である。律子は自分も泣きたくなる心を抑えて、母に言った。
「牛なんかおらへんが、出てきたら追っ払ってやるから恐がらんでもええ。さあ早く家に帰ろう、そしてゆっくり休むんや」 
 律子は力ずくで母を抱えるようにして、家に連れ戻った。そこへ、父親が帰ってきた。
「お母ちゃん、大変な熱や。いい薬ないやろか」
「……」
「咄嗟のことで、田倉もきょとんとしていたが、すぐに炊事場から、白い錠剤と水を持ってきた。
「これをやってみろ、アスピリンや」
「お母ちゃん、昼からこんな状態だったやろか」
「あまり環境が変わりすぎたからな。それに衰弱が激しいから、錯乱を起こしたんだ」
 田倉は淋しげに、つぶやいた。
「浩二はどこへ行ったんだろ。今日に限って家にいないなんて」
「……ん、だな」
 田倉は言葉が見つからず、やりきれぬといった表情で表に出た。いつものように腰の煙管に煙草を詰めながら……

 田倉は、コロノ住宅を一軒ずつ注意しながら東へ向かって歩いた。暗くて歩きにくかった。しばらく行くと、カンテラの灯りを手にこちらへ歩いてくる人影が見えた。三人連れである。大人は八代哲二だった。背負った子供は田倉の末子の稔で、もう一人は浩二であった。

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