《特別寄稿》「第2の故郷」ならぬ「第1・5の故郷」=サンパウロ市 西銘光男

モジ市周辺の邦人植民地分布図(『拓魂永遠に輝く』(モジ五十周年祭典委員会、1971年)より)

 〝第1・5の故郷〟なんて聞いた事が無いと言われるかも知れない。そうだろう、どんな辞書にも載っていない私の造語だ。ではこれから説明しよう。
 私がブラジルに着いたのは生後11カ月の時だった。
 日本移民の大部分が原始林の中にあるコーヒー園にコロノ(契約労働者)として配耕されたものと違い、親父は、早くからサンパウロ州モジ・ダス・クルゼス市とサレゾッポリス市を繋ぐ州道の10キロ地点のコクエーラ植民地で営農していた親族の農場の呼び寄せ移民と言う形で渡伯した。そこで馬鈴薯やキャベツの栽培の実習を受けた後、そこから3キロ程離れたウチナンーチュの土地を借りて独立した。
 その草深い農村で私は幼少年期を過ごし思い出深い〝第1・5の故郷〟となったのである。つまり「第2の故郷より第1の故郷に近い」と言う意味である。私は戸籍上は一世であるが日本の記憶なんて全くなく、ここで生まれた二世に近いので、自分では〝一世半〟と言っているのと同じ理屈である。
 コクエーラ植民地はモジ/サレゾッポリス街道の6・5キロから14キロ辺り迄を占める管区だ。海岸山脈の一部で起伏の多い地形で、平均標高が海抜760m、降雨量が多く、割と清涼な気候で蔬菜の栽培や養鶏に適していると言う事で、奥地に配耕された移民がコーヒー園との契約をクリアして、サンパウロ近郊の緑地ゾーンに野菜栽培の小農場を運営する者が増え、最盛期には400家族以上の大世帯となった。
 コクエーラ植民地はモジ/サレゾッポリス街道に沿って流れるチエテ河の河川敷に密生する野生の椰子に因んで、Bairro dos Coqueirosと名付けられた。だがそこに住み付いた日本人は「コッケーラ」と発音し、それが何時の間にやらBairro de Cocuéraが正式名称となった。モジ市役所が発行した案内書にもそうなっている。
 日本人の集団に欠かせない日本人会や青年会は早い時期に創立されていた。出稼ぎ型が多かったため、会の運営は日本の生活の延長みたいなニュ-アンスで全てが日本語によって運営された。その中で日本人会が遺した特筆すべき功績はサンパウロとリオ・デ・ジャネイロの台所を預かる緑地ゾーンに発展させた他に、小学校の校舎を建設し教育局に寄贈し、州立小学校を設置した事と毒蛇の血清を植民地内に常備した事だった。

日本人会

  1-小学校

 人口が短期間に膨張したため、既存の州立小学校には学齢期の全児童を収容する事ができなくなった。そこで日本人会は寄付を募り、さらに会員の勤労奉仕によって学童全員を収容できる広大な校舎を建て州の教育局に寄贈した。
 先生たちはモジ市から毎日バスで通っていた。最盛期には400人近い生徒がいてその99・9%が日系人であった。昔から住んでいた原住民もいたが、子供達を学校に通わせるなんて思いもよらないカボクロばかりで、非日系人の生徒は教室に一人居るかどうかの程度だった。
 当時の貧しい移民の子共達は、男の子は裸足で坊主頭、女の子も裸足で通学、学校には給食の制度が無かったので、おにぎりに味噌を塗って焼いた弁当を、教室の前のセメントの階段に並んで座って食べていたのを、ブラジル人の若い先生たちが物珍しそうに眺めていた。
 また家では専ら日本語で話していたので、休憩時間に校庭でも日本語ばかり喋って遊んでいたので、たまに見回りに来る校長先生に叱られたものであった。
 私は小さい時から本に嚙り付いてばかりいたので5歳にならない内に幼稚園に入学させられ(身分証明書は要求されなかったようだ)学校では一番チビだった。
 或る雨の降る日、大人の傘を差して街道をトボトボ歩いていた所、担当のマチルデ先生がバスの中から見つけ、バスを停めさせ、傘を畳んで私を自分の膝に乗せ、学校まで連れて行かれた事は今でも鮮明に記憶に残っている。
 平生は隣のお兄ちゃんの自転車に乗せて貰って通学していたが、その日は何かの都合で歩いて行かねばならなかったようだ。学校で一番チビであった事もあり、先生の言う事をよく聞き、熱心に勉強したので先生に可愛がられた。友達はやっかみで「ババーの子」と呼んでいた事も覚えている。
 当時の小学校は幼稚園を含めて5年制度で普通満7歳から11歳位までだったが、奥地で混合学校(3年制で全員一教室、一人の先生が1年生から3年生まで教えると言う制度)に通っていたが、卒業証書は呉れなかったので、それを貰うために4年生に編入された。
 既に声替わりした生徒も大勢いて生徒の年齢はバラバラだった。中学の入試(当時は中学に入試があった)を受けるためには、小学校の卒業証書は必須であったが、私の組から中学の入試を受けたのは女の子3人だけだった。
 小学校を卒業したのは1941年の暮れ満9歳になったばかりで、奇しくも日本海軍がハワイのパールハーバー軍港に奇襲をかけた月であった。
 クラスでは一番チビだったが、成績は体の大きさの順番でなかったので担当の先生は盛んに中学校の受験を勧めて呉れたが、親父はこんな戦争は日本の勝利ですぐ終わるだろうし、終わり次第日本へ帰るから中学校なんか行く必要はないと言い野良仕事を手伝わされた。
 年齢の割に体が小さかったので普通のエンシャーダは使い切れなかったので、小型の道具(玩具ではない)を買って貰った程である。

2019年、コクエーラ会館で開催されたモジ入植100周年式典で感謝状を渡された功労者の皆さん(Foto oficial = Wanderley Sasaki)

  2-毒蛇の血清を部落に常備

 海岸山脈は毒蛇(主にジャラクスーやジャラッカ、鈴蛇もいたようだ)の多い所で、農地や藪の中で蛇に咬まれると言う事故が相次いだ。私も危うくやられる所であった。
 サツマ芋の収穫が終わって、枯れたつるを燃やしていた時、地べたに積んであった芋蔓を両手で抱えて火に投げ込んだところ、その中で昼寝していた蛇の方が慌てて逃げるのを見てびっくりした。私は枯れ蔓を蛇ごと抱えて運んでいたのだ。
 蛇がもう少し早く目覚めいたら間違いなく咬まれていただろう。とにかく、蛇に咬まれたら血清を打つためにサンパウロのブタンタン毒蛇研究所迄行かねばならなかった。咬まれた蛇の種類や毒の程度にもよるが、緊急に血清を打たなければ命に拘わるか、酷い後遺症に見舞われる事がある。
 当事、車の所有者が少なかった植民地では深刻な悩みであった。そこで日本人会がブタンタン毒蛇研究所と話し合い、血清を部落の決まった場所に常備して、扱い方などの指導を受けた者が緊急に応対する仕組みを設置した。
 消費した分は毎回補填、在庫は適当な間隔で更新する条件、また植民地内で毒蛇を捕獲してブタンタンへ届けると、その蛇の毒に対する血清が貰えると言う仕組みまで出来ていた。そのお陰で多くの農民が救われた事は大きな功績であった。
 ブタンタン毒蛇研究所についてこんな思い出話がある。1968年初めて沖縄に帰省し、姉の家で歓迎会をやって貰ったとき参加者の一人が、「サンパウロは那覇より大きな街だそうだが、その街の中で毒蛇に咬まれた者が居たと聞いた。街の中に毒蛇が居るなんて随分物騒な所だなあ」と言い出した。
 それはサンパウロの街を歩いていて毒蛇の咬まれたものでは無く、ブタンタン毒蛇研究所が血清を作る為に飼っている毒蛇の世話をしていた職員が、作業中うっかりして手を咬まれた、いわゆる労災であった。血清が手元にあったので大事には至らなかったが、そんな話が(歪曲されて)沖縄まで伝わっていた事には恐れ入った。因みに蛇に咬まれたその職員は、私の小学校の同級生の兄で本人から直接聞いた話である。

  3-その他

 日本人会の事業運営には、貧困者が多かった会員への配慮、支援、土地の賃貸、購入の世話、弔事の際は会葬とし町の墓地までの往復の足の世話、香典の負担を軽減するため遺族との親密度に関係なく一律に3ミル・レースに限定し、貧者の目線で物事を考えると言うきめ細かな配慮は大変好評であった。

日本語学校

 大部分の日本移民が出稼ぎのつもりで移住して来ていたので、帰国後子供たちが日本の学友に負けないよう日本語を勉強させなければならないと、移民の集団地には必ずと言っても良いほど日本語学校が出来た。
 日本人会の運営の都合で14区画に分けられたコクエーラ植民地もご多分に漏れずあちこちに日本語学校が出来た。コミュニティには専門の先生が居ないので、賢そうな者を選んで先生に祭り上げたが、日本の農村で食い詰めたドン百姓の子が、軍歌を子守歌の代わりに聞きながらなんとか義務教育を終えた程度のドングリの背比べの域を出ず、中には地方訛りのきつい日本語を教えると言う涙ぐましい努力が払われていた。
 そんな状況の中で私も昼間は野良仕事を手伝い、夜は日本語を習うと言う生活を始めた。運よく戦前進出して来た日本企業に勤め、戦争で会社が撤退した後、親戚の世話で養鶏をやっていた日本仕込の先生(山本先生)に恵まれ4~5年勉強した。
 その先生は算盤の名手で、日本語だけではなく、日本歴史や数学(代数、幾何の初歩)も教えて貰った。日本の学生に負けないようにと始めた日本語の学習であったが、日本の進出企業で約半世紀に亘ったサラリ-マン生活の傍ら、日本商工会議所の渉外委員会のメンバー、ブラジル日本文化福祉協会の事業委員長、役員など仰せつかって、日本の大卒の大人と競合しなければならない立場になったが、田舎で夜間、文字通りの「ヤミ寺古屋」での勉強が大いに役立った事に感謝している。

2014年11月、コクエーラ故郷祭りの様子

青年団

 日本人会(家長)の他に青年団(独身男女青年会の混合体)があり、細々と文化活動を展開していた。1950/60年代までは殆ど国粋主義者の順二世で占められ、全てがブラジル版日本式であった。
 男子青年会には陸上競技、野球、文化、弁論部(私はこの部に属し、文化部長、会計副団長を歴任、10回に亘り全伯弁論大会に出場し、国粋主義的な論旨を携えて日本語部門で3回優勝した(サンパウロ、プレジデンテ・プルデンテ、アラサツーバ大会)。女子青会には、日本舞踊、料理講習部などがあった。
 会議や運営はすべて日本語なので日本語が不得手の2・3世は寄り付かず、コミュニティの人口に比較すると団員数は極めて少なかった。サッカー、サンバ、カルナバル、社交ダンスは「外人かぶれ」するからと言う事でご法度だと言う徹底振りであった。
 娯楽の少なかった田舎で時折地廻りのシネマ屋と契約し、会館も無かった時代に日本人会が寄贈した小学校の庭を借りてテントで囲い、観客は地べたにゴザを敷いて座り、活動弁士付きの日本の無声映画を上映すると言った映画会が好評であった。電気が無かったのでトラックの後輪を万力で持ち上げ、エンジンを掛けてベルトで発電機を駆動して映写機を回すと言った代物であった。
 もう一つの大きなイベントは農閑期が始る4月末の天長節(昭和天皇の誕生日)に行われる奉祝天長節家族慰安大運動会であった。家族全員が参加すると言うもので、賞品代などの資金集めを含め、運動部など無かった日本語学校の生徒達の練習、会場の準備など青年団が全て取り仕切った。
 日本の生活の延長を想定した行事は全て日系人のみを対象とした「日々親善(ににちにちしんぜん)」の域を脱しなかった。今は世代が降り立派な会館も出来、ブラジル社会全体を視野に入れたイベントを催し「日々(にちにち)」からの脱却を目指している。
 1957年、大学入学のためサンパウロへ移ってから(当時モジには大学が無かった)。ブラジル日本文化協会に出入りするようになってサンパウロ州、パラナ州、マット・グロッソ・ド・スル州、アマゾナス州の日系人の集団地のイベントに参加する機会に恵まれ、戦前から戦後に懸けての日系社会が似たり寄ったりであった事を見せつけられ、コクエーラだけが特異の存在ではなかった事を知り、〝第1・5の故郷〟での過ぎし幼少年時代を懐かしく思い起こしている。

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