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宝石の街ジアマンチーナ巡り=3=コーヒー45万本を栽培、吉松早苗さん

ジアマンチーナ市内に住む吉松さん夫妻

 2日目の午前中、ジアマンチーナ市内に住む数少ない日本人である吉松早苗(よしまつ・さなえ)さん(77歳、山口県出身)の家を訪ねる。吉松さんは、岩が多く砂地という悪条件の同地でコーヒー栽培を成功させ、『吉松コーヒー』ブランドを日本に輸出。現在は息子たちがコーヒー栽培を継いでいる。
 7人兄姉(きょうだい)の末っ子として第2次世界大戦後間もない混乱期に生まれた吉松さんは、父親が戦地に行っていた際に「男でも女でもどっちでもいいように」との思いから「早苗」という名前を付けられたという。
 地元の中学校を卒業後、下松(くだまつ)市にあった日立製作所笠戸(かさど)工場の技能養成所で2年間、寮生活を送った。しかし、戦後の不況で技能養成所を卒業後も仕事は無く、その間、短期農業労務者制度でアメリカに3年間働いていた長兄が帰国。大金を稼いできたことを聞き及び、吉松さんも米国行きを希望したが、同制度は20歳以上でないと行けなかった。その頃18歳だった吉松さんは、地元の農協でコチア青年制度の話を聞きつけ、ブラジルに行くことを決意した。
 1966年2月にサントス港に到着後、パラナ州カストロ市のバタタ農場に配耕となった。当時はバタタ景気で、収穫の際にはブラジル人労働者がバタタを洗浄・選別する前に畑から作物を掘り起こしておく必要があった。そのため、吉松さんら日本から来た青年たちが前日の夜に農作業を行うなど、給料もない「奴隷仕事」が続いた。
 同農場で5年半働いた吉松さんは、マリンガ市に住んでいた子供移民の眞規子(まきこ)さん(75歳)と結婚。そのきっかけとなったのが文通だった。当初、眞規子さんは日本語を勉強するため、日本の農業雑誌『家の光』を通じて日本在住者と文通していた。吉松さんも同時期に文通を通じてマリンガ市に住む眞規子さんの存在を知り、手紙の最後には女性と間違われないように「吉松早苗(男)」と書いていたと振り返る。
 独立してマリンガ市近郊で小麦栽培などを行った後、ミナス・ジェライス州ジアマンチーナ市近郊に転住し、トマトや葉野菜などを栽培した。当時からジアマンチーナ市には日本人が少ないことで珍しがられ、野菜類を地元の市場で販売。「葉野菜の食べ方もブラジル人に教えた」(眞規子さん)という。
 同地域でコーヒー栽培をしたいと思っていた吉松さんは、ジアマンチーナ近郊に800ヘクタールの土地を購入したが、石山の砂地で実際には200ヘクタールほどしか使用できなかった。当初は10ヘクタールの土地に石灰をまき、牛糞の肥料を入れるなど整地作業から始めた。地道な努力が実った現在では、45万本のコーヒーを植え付け、年間5000俵を収穫するまでに成長。その約9割は日本を中心にアラブ首長国連邦のドバイなど海外に輸出しており、良質なコーヒーとしての評価を得ている。
 現在は長男、次男にコーヒー農場を任せている吉松さんだが、コーヒー栽培を始めて6、7年した頃には一攫千金を夢見て、ジアマンチーナ市でガリンペイロ(山師)としてダイヤモンドの採掘にも手を出した。しかし、結局は借金を背負って日本に出稼ぎに行った経験もある。ビールをこよなく愛し、これまで身体を壊すほど飲んできたという吉松さんは、今でも2週間に1回程度は町に飲みにいく悠々自適な生活を楽しんでいる。(つづく、松本浩治記者)

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