《記者コラム》「ブラジル人への手紙」の意義=軍政時代の痛みと逆戻りへの恐怖

「法治民主国家擁護に関するブラジル人への手紙」署名サイト。15日朝10時時点で108万人署名(https://www.estadodedireitosempre.com/)

わずか2週間で100万人の署名を集めた手紙

 ボルソナロ大統領(PL)が既存の投票制度や電子投票機を繰り返し攻撃していることに反発し、サンパウロ総合大学法学部の有志が企画したこの公開書簡「法治民主国家擁護に関するブラジル人への手紙」(https://www.estadodedireitosempre.com/)は当初、3千人の賛同署名から始まった。
 その手紙の仮訳を左に掲げた。これは大まかな内容を知る程度の訳であり、正式な訳は専門家の手に委ねたい。
 それが7月26日にサイトで一般公開されるや弾みがついたように広がり、手紙の朗読が約束された8月11日に100万人を超えた。11日当日、全国法学生連盟のロドリゴ・シケイラ・ジュニオール元会長の調べでは、この手紙は26州に加えて連邦直轄区の少なくとも77の大学法学部で読まれた。
 ブラジルメディアは「歴史に残る日」として大々的に報道した。
 今回の手紙の元になったのは、文中にある通り1977年の「ブラジル人への手紙」だ。
 77年8月11日に行なわれたブラジル最古の法学部、USPラルゴ・デ・サンフランシスコ校の創立150周年を祝う式典で、ゴフレード・ダ・シルバ・テレス・ジュニオル教授らがこの手紙を読み上げ、軍事政権の違法性と、市民の権利が著しく制限された「例外状態」(非常事態宣言)での暮らしに異議を唱え、法の支配の再確立と国民議会の招集を要求した。
 さかのぼれば軍政直前の1960年の大統領選挙では、左派の国民民主同盟のジャニオ・クアドロスが勝利した。彼はアメリカとの距離を置いてキューバとの関係を深めるため、ブラジリアに招いたアルゼンチン出身のキューバの閣僚チェ・ゲバラに最高位の南十字星勲章を贈った。だがクアドロスは同年8月25日に突如辞任し、副大統領だったゴラールが昇格した。
 「ジャンゴ」と呼ばれて民衆から親しまれ、左翼的な傾向を持つゴラール大統領は軍部から認められるものではなく、軍は1964年3月31日にクーデターを行って政権を掌握した。軍部を後押しするために、アメリカ海軍の空母を含む艦隊がリオ沖で演習を行い、介入する意向を示していたと報じられている。そのため左翼勢力からの反撃はほとんどなく、4月4日にゴラールはウルグアイに亡命した。
 軍政を嫌った国民は翌年65年10月の地方選挙で、反軍政派の社会民主党や労働党を圧勝させた。それに反発したカステロ・ブランコ将軍は強硬路線に転換して戒厳令を敷き、手紙にある「例外状態」(estado de exceção、市民の権利が大きく制限された非常事態の一種)を宣言した。
 これにより国会や地方議会の解散や、既存政党の解体再編成を行い、65年11月には国家革新同盟とブラジル民主運動の2党による翼賛体制を樹立した。その結果、軍事政権時代には現在のような自由な選挙が行われず、軍関係者が全権を掌握していた。
 ボルソナロ大統領は就任以来、「例外状態」をコロナ対策でも匂わせたほか、最高裁などと対立する度に軍部との密着を背景にこれを再び宣言することを示唆してきた。

軍事政権による拷問殺害が頻発した70年代

 65年からの圧政強化に対抗して、学生や労働者を中心に軍事政権の転覆を求めて都市や地方で武力闘争が激化していく流れになる。
 左派グループによる外国大使の誘拐や商業銀行強盗が頻発した。これらの誘拐は活動資金を得るだけでなく、主に軍事政権に政治犯を釈放するよう圧力をかける手段として利用された。
 実際、70年3月11日には大口信夫在サンパウロ総領事が誘拐される事件が起きた。公邸近くで誘拐され、左派テロ団は政治犯5人の解放を要求した。
 反政府活動には日系の若者も少なくとも十数人参加した。5日に亡くなった、日伯毎日新聞の創立者・中林敏彦さんの次男で、労働者党(PT)創立者の一人でもある中林順さん(2世)も活動家の1人だ。
 左派活動の活発化に対抗して、軍事政権が1968年に施行したのが軍政第5号(AI5)だ。国民議会を閉鎖、国民による政治的権利の行使を停止、人身保護令状への権利を抑圧する目的で出された法令だ。
 この法令を盾に70年前後から、社会政治警察(DOPS)や陸軍諜報部(DOI-CODI)などによる反政府活動家やジャーナリストが逮捕され、拷問を受けた挙句に行方不明になり、不自然な遺体になって発見されるケースが次々に起きていた。最も強圧的に言論を封殺する政策だった。
 以下の反政府活動家はみな警察や陸軍の施設で拷問の末に殺され「自殺した」と発表された。73年には学生運動リーダーのアレシャンドレ・ヴァンヌッキ・レメ、75年に共産党員のジョセ・フェレイラ・デ・アルメイダとジャーナリストのヴラウジミル・エルゾギ、76年には金属部門労働者で活動家のマノエル・フィエル・フィーリョらだ。
 73~74年に陸軍が秘密裏に実行したアラグアイア・ゲリラ隊鎮圧作戦では、約80人の活動家のうち約20人しか生き残らなかった。このゲリラ隊はキューバ革命に影響を受け、北東伯の農村部に潜伏して革命を起こそうと活動していた若者達だ。
 この鎮圧作戦自体が軍政時代には極秘とされ、民政化以降に明らかになった。その時の生き残りの1人が、PT幹部のジョゼ・ジェノイノ元PT党首だ。
 ジョノイノの妻は日系2世のキョウコで、コロニア俳壇の長老で2020年に亡くなった栢野桂山(本名=計治)の娘だ。69年にブラジル共産党の集会で知り合い、刑務所に収監されていた73年頃から、お互いを支え合うように恋愛を始め結婚に至った。
 PT政権時代に軍政時代の圧政の真実を暴くために作られた真相究明委員会は、少なくとも434人がこのような軍や治安警察による犠牲者になったと公表した。
 ボルソナロ派の政治家や大統領の息子らは、たびたびこのAI5復活を仄めかして来たため、左派ならずとも不安感が募っていた状況だった。

77年の手紙が端緒、8年がかりで民政移管へ

 このように軍の強権的な圧政に苦しむ民衆の声を代弁して、1977年8月11日にUSPラルゴ・デ・サンフランシスコ校の創立150周年を祝う式典で「ブラジル人への手紙」が読み上げられた。軍政から逮捕されるかもしれない状況の中、勇気ある知識人らが第一声を上げた。
 これが公に出された最初の軍政批判であり、ここから8年がかりで民政移管への運動が盛り上がっていく。
 圧政に対する国民の声は70年代後半から高まり、1979年8月には恩赦法が制定されて政治犯釈放や、追放者の帰国が認められ、カエターノ・ヴェローゾやフェルナンド・エンリケ・カルドーゾなどの政治亡命者が続々と帰国した。
 11月には政党法が制定されて政党の結成が自由化されたため、80年2月に労働者党(PT)が生まれ、82年に正式登録、初代党首にルーラが就任した。
 弾圧されていた労働運動が復活しはじめ、1980年にはルーラが指導する自動車労組による労働者と農民、失業者などを包括した大規模なゼネストが勃発した。
 この流れの中で83年に、大統領を直接選挙で選ぶ法案を成立させる政治運動「Diretas Já」が始まった。
 同時に、ブラジルで2番目に応援団員の多いサッカーチーム「コリンチャンス」では、1982年から「Democracia Corinthiana(コリンチャンス民主主義)」運動が始まっていた。
 ソクラテス、ウラジミル、カザ・グランデら当時の人気選手が呼びかけ、ブラジルサッカー史上最大のイデオロギー運動となった。クラブのルール、公の場でアルコール飲料を消費する権利、政治的意見を表明する自由などの重要な決定が、コーチや従業員も等しく1票を入れる形式で決められた。メンバーの平等な投票によってクラブ運営の重要な点を決めるやり方だ。
 軍事政権への民衆からの当てつけのようなニュアンスがあり、チームは「Diretas Já」や「大統領に投票したい」などの政治的フレーズをシャツに印刷した。このように民主化要求が様々な階層から噴き出るように高まる中、軍事政権が弱体化して1985年に民政移管が実現した。
 それらの発端が77年の「ブラジル人への手紙」だった。今回、11日の「法治民主国家擁護に関するブラジル人への手紙」の読み上げ式には、77年の手紙の署名者やカザ・グランデらも駆けつけた。
 今回の手紙の文面には、ルーラやPTを直接支持するような言葉もなければ、ボルソナロ大統領を名指しで批判する表現も入っていない。敢えて「書かないこと」によって書いてある以上に強調する作用もあり、より幅広い「反ボルソナロ連合」が集まった感があった。
 今回の手紙が公開されて2週間で100万人の書名が集まるという勢いを裏返せば、それだけ独裁政治や専制政治に逆戻りすることへの恐怖感が、国民に広く共有されていることが分かる。
 これは、ボルソナロが常々口にする電子投票機などの選挙制度に対する不信感や、最高裁や選挙高裁への強烈な攻撃をすると予想される9月7日の政治集会に対する予防線となっている。
 「100万人が専制主義はイヤだと言っている。選挙結果を認めずに軍事クーデターを起こしても、国民は絶対に認めない」というメッセージだ。
 この手紙に関して大統領は、表面的には「トイレットペーパーほどの価値もない、ただの紙切れ」と強気のコメントをしている。アウシリオ・ブラジルの増額支給が始まる中、大統領の支持率は目に見えて上がっているとも報じられる。この手紙のような高尚な話より、「バラマキをより多くしてくれる人の方が良い」と思っている国民も現実には多い。
 とはいえ、大統領も内心は心穏やかではないだろう。(敬称略、深)


法治民主国家擁護に関するブラジル人への手紙(仮訳)

11日、法学部前の広場に集まった数千人の群衆

 1977年8月、この国における法学部創立150周年記念の祝典のさなか、私たちの師ゴフレード・ダ・シルバ・テレス・ジュニオル教授は、大学自治領ラルゴ・デ・サンフランシスコで、当時の軍事政権の違法性と、私たちが暮らしていた「例外状態」(estado de exceção、市民の権利が大きく制限された非常事態の一種)を非難する「ブラジル人への手紙」を読み上げた。また、法の支配の再確立と憲法による国民議会の招集を要求した。
 植えられた種は実を結ぶ。ブラジルは軍事独裁政権を乗り越えた。国民議会は、基本的人権の尊重の浸透とともに、民主的な法の支配を再確立し、我々の制度の正統性を回復させた。
 私たちは、共和国、行政、立法、司法の権力を持ち、すべてが独立し、自律して、要である連邦憲法を尊重し、遵守することを約束している。
 34周年を迎えようとしている1988年の連邦憲法のもと、自由で定期的な選挙を経て、国のプロジェクトに関する政治的議論は常に民主的に行われ、最終的な決定は国民主権にゆだねられてきた。
 ゴフレードの教えは、わが国の憲法に具現化されている。「一切の権力は、国民から起り、この憲法で定めるところにより、選挙で選ばれた代表者を通じて、または直接にこれを行使する」
 電子集計を導入した私たちの選挙は、世界の模範となるものだ。私たちは、投票箱の結果と共和制の政権移行に関して、何度か政権交代を経験している。電子投票箱は、選挙司法制度と同様、安全性と信頼性が証明されている。
 私たちの民主主義は成長し、成熟したが、まだ多くの課題が残っている。私たちは、社会的不平等が深刻な国に住んでおり、保健、教育、住宅、治安といった必要不可欠な公共サービスが欠如している。私たちは、持続可能な方法で経済的潜在力を開発するために、長い道のりを歩んでいる。国は多くの課題を抱えており、非効率的である。人種、性別、性的指向を尊重し、条件を平等にするという要求が、完全に満たされるにはまだほど遠い。
 このような困難な状況の中、今後、州および連邦の立法府と行政府における任期交代のための選挙戦が始まる。この瞬間、私たちは民主主義の頂点に立つべきであり、今後数年間の国の方向性について最良の提案を有権者に納得させることを目的とした様々な政治プロジェクトの論争が行われている。
 そんな市民の祭典(選挙のこと)の代わりに、民主主義の正常性に対する計り知れない危険、共和国の制度に対するリスク、選挙結果に対する無礼な仄めかしを経験する瞬間が訪れている。
 証拠も根拠もない(選挙制度への)攻撃は、選挙プロセスの公正さと、ブラジル社会が懸命に勝ち取った民主的な法の支配に疑問を投げかけるものだ。他の権力や市民社会の部門に対する脅威、そして暴力の扇動と憲法秩序の崩壊は耐え難いものだ。
 私たちは最近、米国の世俗的な民主主義を危険にさらす権威主義の行き過ぎた行為を目撃した。そこでは、民主主義と選挙の公正さに対する国民の信頼を揺るがそうとする試みは成功しなかったし、ここでも成功しないだろう。
 私たちの市民的良心は、民主主義の反対者たちが想像しているよりもずっと大きい。私たちは、民主的な秩序を守るという、より大きなもののために、小さな相違を脇に置く方法を知っている。
 1977年の「ブラジル人への手紙」を支えた市民精神に彩られ、あの時と同じ大学自治領ラルゴ・デ・サンフランシスコに集まった我々は、選挙の好みやそれぞれの政党に関わらず、ブラジル人に対し、民主主義の擁護と選挙結果の尊重のために警戒を続けるよう呼びかける。
 現在のブラジルでは、権威主義的後退はもう許されない。独裁と拷問は過去のものだ。ブラジル社会が直面する膨大な課題の解決には、必然的に選挙結果の尊重が必要となる。
 (秩序)破壊の試みに対する市民の警戒の中で、私たちは声を揃えて叫ぶ。
 常に民主的な法の支配を!!!!

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