サントス強制退去=知念兄弟の伝え聞き(2)=フェイランテから身を立て

父親の保(やす)さん(前列左から2人目)が元気な頃の家族写真(年代不明、提供写真)
父親の保(やす)さん(前列左から2人目)が元気な頃の家族写真(年代不明、提供写真)

 1945年当時23歳だった長男の保(やす)さんが家督を引き継ぎ、一家を養うために御者の免許を取得した。野菜をフェイランテに卸す仕事を行い、一日の睡眠時間が4時間という過酷な生活を続けた。その甲斐もあり、フェイランテの権利を取得できるようになった49年5月、保さんは知人の紹介によりトミ子夫人(故人、旧姓・屋嘉部(やかぶ))と結婚している。
 屋嘉部家は、1917年12月28日に家長のウシ・カマ夫妻が「若狭丸」で渡伯し、サンパウロ州内陸部セラーナ市のコーヒー農園に入植したが、劣悪な労働条件と生活環境になじめなかったため、19年にサントス市に転住。トミ子さんは8人兄弟の末っ子として同市で生まれた。
 屋嘉部家も知念家と同様、43年7月8日に強制退去命令を受け、知念家と同じサンパウロ州プロミッソンに転居していた。しかし、同地では知念家との接点は無かったようで、屋嘉部家も45年には再びサントス市に戻っていた。
 トミ子さんと所帯を持った保さんはサントス市内でタクシーの運転手も行うようになり、遂にはタクシーを自分たちの手で購入できるまでに生活が向上。3男3女の6人の子宝にも恵まれた。
 当時のタクシー1台の値段は、家一軒が買えたほどだといい、保さんはさらに2台のタクシーを追加購入。計3台のタクシーを所持するまでになった。
 一方のトミ子さんも家計を助けるために60年代にサントス市内で美容師のコースを受講。60年代末に家族で同市内メルカド地区に引っ越した際、住居の地下に美容院を開業して成功したという。
 保さんは仕事一筋で自由な時間があまりない中でも地域社会の結束を促し、地元の沖縄県人会サントス支部やアトランタ日本人会創立者の一人として活動。また、三味線サークルに参加し、舞踊や書道の練習に励むなど芸術を愛したそうだ。
 夫婦して子供の教育に熱心だった中、保さんは息子たちには12歳から18歳までの多感な時期にフェイランテの仕事を手伝わせ、18歳になった時に大学へ進学させる教育方針を実行。3人の息子たちはすべて技師として働き、長男のジルベルトさん(72歳、2世)は元連邦下院議員だった伊波興祐(いは・こうゆう)さんがサンビセンテ市長だった1977年から38年間にわたって同市役所の建築技師として働き、現在は年金生活を送っている。
 また、次男のカルロスさん(66歳、2世)も技師としてペトロブラスで勤務。現在は引退し、昨年からサントス日本人会副会長として活動するほか、CIESP(サンパウロ州産業センター)の若手起業家育成理事も務めるなど充実した日々を過ごしている。さらに、取材した日には会えなかった三男のロベルトさん(63、2世)はITA(ブラジル航空技術大学)を卒業後、航空技師として活動したという。
 その間、保さんの母・マツさんは75年にようやく沖縄へ一時的に戻ることができ、生き別れとなっていた娘のよし子さんと40年ぶりの再会を果たすことができた。
 子供たちが社会人として成長し、孫たちも大学生となった92年に保さんは仕事を引退。年金生活者として快適な暮らしが出来るようになったが、97年4月6日にサントスの海岸通りでオートバイにひかれて事故死し、74歳の生涯を閉じている。(つづく、松本浩治記者)

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