サントス強制退去=伊波元連邦下議の記憶=学校返還求め陸軍とも対峙

自身が受けた強制退去について語る伊波さん
自身が受けた強制退去について語る伊波さん

 「サントスを(強制退去で)追い出された時に私は3歳でしたが、当時生後5、6カ月だった私の妹(三女)はその2カ月後に亡くなりました」―。元連邦下院議員の伊波興祐(いは・こうゆう)さん(82、2世)は、1943年7月8日にサントス市で行われた24時間以内の強制退去事件について、そう語る。
 サントス市生まれの伊波さんは、祖父の代から同市内にソーメン工場を所持していたが、強制退去と同時に同工場も閉鎖せざるを得なくなった。
 12人兄妹の長男だった同氏は、父母らとともに汽車でサンパウロ市へと行き、サンパウロ市立中央市場(カンタレーラ)近くの花城(はなしろ)家族の世話になった。
 その1年後、母方の親戚がノロエステ線のサンパウロ州ジェツリーナに居たこともあり、伝手を頼って同地から近いリンスへと転住。サントス時代のソーメン工場のいくつかの部品をリンスに持っていき、父母たちは同市でソーメン工場を再建しようとしたが、結局は大型機械が無いために、うまくはいかなかった。
 リンスで中学校2年生(13歳)まで過ごした伊波さんは、53年に家族とともにサントス市に戻り、父親は当時の沖縄県人の重鎮で実業家だった花城清安(はなしろ・せいあん)氏が経営していたバナナの輸出業の仕事に就いた。1924年に7歳で渡伯していた伊波さんの父親は、青年時代からジュキア線のイタリリ市で花城氏経営のバナナ農園で働いた経験があったという。

現在のサントス日本人会の会館
現在のサントス日本人会の会館

 62年に生活拠点をサンビセンテ市に移し、翌63年にサントス大学に入学した伊波さんは同時に、COSIPA(サンパウロ製鉄会社)にも勤務することになった。
 その後、68年にサンビセンテ市議となり、翌69年に弁護士資格を取得。74年にサンパウロ州議員に当選した。2年後の76年にサンビセンテ市長となり、市長時代の78年に沖縄県那覇市とサンビセンテ市との姉妹提携を結んでいる。
 さらに、82年に再びサンパウロ州議員に返り咲いた後、86年に46歳で連邦下院議員となり、94年までの3期12年を務めあげた。伊波さんは94年、第2次世界大戦後にブラジル政府に敵性資産として接収されていたサントス日本人学校の返還要求法案を下院に提出した。
 上院では返還ではなく、譲渡の付帯条件付きで可決されたものの、その後に下院に戻され、再上程待ちの状態が続いた。2006年に無償貸与される形で使用権が認められたが、議会では一向に進展しなかった。
 その後、実際にサントス日本人学校が全面返還されたのは、2018年だが、その間、伊波さんが下議時代に返還法案を提出した後も水面下で陸軍との激しいやりとりがあったという。
 サントス日本人学校はブラジル政府に接収された後、陸軍の財産として登録されていた。伊波さんは1994年に下院議会に提出した法案で「なぜ、日本人学校が陸軍の財産になるのか。戦争(第2次世界大戦)の褒美なのか」と批判していたそうだ。陸軍との間に入っていたブラジル政府は、日本人学校を返還させるために、代替地を陸軍側に提供してくれとの条件を出し、最終的にブラジリア近辺の土地を陸軍に供与することで日本人学校の返還が実現したそうだ。
 伊波さんは、ブラジル沖縄県人会がブラジル政府に行っている「損害賠償を伴わない謝罪要求」について、「とても大切なことで賛成ではある」とした上で、「6月18日の『移民の日』などでもっと大きくアピールしていけば」と助言していた。(おわり、松本浩治記者)

 

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