訃報=東洋街の牽引役、池崎博文さん逝く=メトロ駅や広場の名称に「日本」=94歳、肺炎感染症で

池崎博文さん
池崎博文さん

 「ブラジルの美容界の先駆者」「リベルダーデの市長」と呼ばれ、ブラジル美容業界の発展、東洋街の活性化や日本文化普及に尽力してきた池崎博文さんが1日未明1時頃、汎発性肺炎感染症によりサンパウロ市内のシリオ・リバネース病院で亡くなった。2週間前から入院していた。行年94歳。同日午前からサンパウロ市コンゴーニャス墓地で通夜が行われ、午後3時半に葬儀・埋葬された。
 池崎さんは、1927年11月7日、熊本県天草市生まれ。34年サンパウロ州奥地のバストス移住地に家族で移住。主戦直後47年にサンパウロに出て1951年、18歳の時にリベルダーデ区にあった洗染業の卸問屋に就職。仕事の傍ら、グアルーリョス大学法学部で学んで卒業、弁護士資格を取得。その資格を得るのに必要だったために帰化した。54年に倒産した同業倉庫の経営を引き継いた。
 それを元に64年に「池崎商会」を設立。洗染業製品の卸売りから始まり、化粧品まで取扱い商品を広げ、現在のIKESAKIグループを作り、社長職は息子に譲ったが、現在も会長を務めていた。南米最大の美容用品市ビューティフェアーを主催するなど同業界におけるリーダー的な存在だった。
 リベルダーデ文化福祉協会(ACAL)会長を27年間も務め、その任期初期の1997年に天皇皇后両陛下がブラジル日本文化福祉協会(文協)をご訪問される際、ガルボン・ブエノ街をご通過くださるよう根気強く交渉し、実現させた。
 七夕祭りや東洋祭などを実行して、東洋街を「日本人の町」としてブラジル社会にイメージ付ける活動に邁進。2013年、中国人実業家に買収されそうになっていたニッケイパラセ・ホテルを買い戻し、東洋街における日系人の存在を裏表から支え続けてきた。
 文協の副会長、天皇皇后両陛下歓迎実行委員会副委員長(1997年)、ブラジル日本移民百周年祭で記念行事実行委員会副理事長(2008年)。長年ブラジル将棋連盟の活動にも協力してきた。
 2011年に旭日単光章を受けた。18年、日本移民110周年及び眞子内親王殿下のご来伯を記念して、多額の広場改修工事を行うことと引き替えに、サンパウロ市東洋街のベルダーデ広場を「リベルダーデ日本広場」に、メトロ駅リベルダーデを「日本リベルダーデ」に改称する運動を中心になって推し進めて実現させた。

池崎氏の葬儀の様子。左がお別れの言葉を述べる網野さん
池崎氏の葬儀の様子。左がお別れの言葉を述べる網野さん

池崎氏葬儀=「肥後もっこすの代表選手」=両陛下のガルボン街通過実現

 《リベルダーデ区のコミュニティと一緒に、彼はいつも重要な役割を果たしてきた。いつも市役所の強力なパートナーだった》――リカルド・ヌーネス・サンパウロ市長は1日、市役所サイトにそのような追悼文を掲載した。
 池崎博文さんの通夜が1日午前からサンパウロ市のコンゴーニャス墓地で、午後3時半から葬儀・埋葬が行われ、約200人が参列した。桑名良輔在サンパウロ総領事、リベルダーデ文化福祉協会(ACAL)役員やブラジル日本文化福祉協会(文協)の石川レナト会長、サンパウロ日伯援護協会の税田パウロ清七会長をはじめ、多数の日系団体代表、化粧品業界の取引先代表らが訪れた。
 葬儀の際のあいさつで、網野弥太郎ACAL表委員会長は池崎さんを代表する業績として次の2点を強調した。

サンバチーム「ブリンコ・デ・マルゲザ」でパレートした時の様子
サンバチーム「ブリンコ・デ・マルゲザ」でパレートした時の様子

 1点目が1997年に両陛下が文協をご訪問する際、ガルボン・ブエノ街を道順に組み込んだこと。ガルボン・ブエノ街は当初、通路の幅や両側の建物の存在が警備の観点から避けるべきとの日本側判断があり、道順から外されていた。しかしそれでは、一般参加者が両陛下のご尊顔を拝する機会は文協の大講堂に入れる人のみと限られてしまうことになる。
 そこで池崎さんが一肌脱いで総領事館と根強く交渉し、認可を受けられるように街路の整備を行い、最終的に道順に組み込むことになった。
 網野さんは「移民たちはムシロを道路にひいてお待ちし、通過される両陛下にバンザーイ、バンザーイと大歓声を送った。実に感動的な光景でしたよ」と当時の様子を振り返る。
 2点目がブラジル化粧品業界での活躍だ。網野さんは「池崎さんは、サンパウロに出てきてブラジル化粧品業界のトップにのし上がり、まさに純粋で頑固な肥後もっこす(熊本県人気質)の代表選手のような人でした。天国ではゆっくり休んでほしい。その分、残された皆で力を合わせ、日系社会を盛り上げてほしい」と締めくくった。

サンバチームの幹部と記念写真
サンバチームの幹部と記念写真

 ACAL職員の横井真澄さんによれば、池崎さんは4月16日(土)21時ごろ、サンパウロ市カーニバルのアニェンビー会場でサンバチーム「ブリンコ・デ・マルゲザ」の行進に参加していた。
 「日本リベルダーデ駅、アフロから東洋へ」をテーマにしたアセッソ2クラスのパレードだった。チーム側の「リベルダーデを顕彰するパレードなので、ぜひとも池崎さんに」と熱意ある呼びかけ応じ、承諾した。横井さんは「山車の上でとても元気に、嬉しそうにパレードされていました」と証言する。
 翌17日に入院し、帰らぬ人となった。

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