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西村さんが天に召されて12年(3)=広島県 松岡亜紀夫

藤村さんの肖像画
藤村さんの肖像画

 西村さんと話したのは、学校に来て3か月後であったと思う。呼び出された私は直立不動。西村さん当時79歳、ものすごい眼力。日本刀で切られるような恐怖感さえあった。何を聞かれたか覚えていない。ただ「はい」「わかりました」と答えただけだった。その頃の私は「西村さんは私のことなど眼中にない」と思っていた。
 しかし、帰国後分かったことだが、母親が「愚息がお世話になっています。ありがとうございます」と毎月西村さんに手紙を書いてくれていた。西村さんも「大丈夫。私が責任をもって預かりますから。心配いりません。元気でやっていますから」とのやり取りがあったそうだ。
 それを教えてくれたのが、西村さんの秘書をされていた須賀得司さん(現ポンペイア文化体育協会名誉会長)であった。須賀さんは、30年近く、西村さんの秘書として仕え、大使館、総領事館、日系団体等の連絡業務を任され、西村さんの指示で電話連絡、回答、手紙の返信・回答をされていた。約30年もの間、西村さんの意を受け仕事をされていた。
 西村さんの晩年には、面会、寄付を求める人が列をなした。それを裁くのも須賀さんの仕事。中には、須賀さんの自宅に電話して、面会を求める人もいたそうだ。
 こんな話もある。いくらJACTOがあるとはいえ、ポンペイアは人口約2万弱の小さな町。この程度の人口の市は、ブラジルに数えきれないほどある。市長がサンパウロやブラジリアの政府や政党に陳情に行っても応じてくれない。ある政府官僚・政党党首は「ニシムラを連れてくるなら会ってやる」と条件を付けてきたそうだ。
 フンダソンにいても、サンパウロの研修生の話が入ってくる。「サッカーを見に行った」「オーロプレットに旅行をした」など、遊びたい盛り、うらやましく思った。顧みて自分は、「明日も畑仕事か」と考えると、「自分は何しにブラジルに来たのだろう?」と思うようになってきた。
 教育学部に籍を置く者。せめてブラジルの見聞を広めたいと思い、西村さんに「フンダソンの外で研修したい」と直訴した。しかし、それが西村さんの逆鱗に触れることになる。「君のような者にブラジルでできる仕事はない。それでも何かしたいのなら何でもするか?」と言われ「何でもします。」と答えると、次の日から、西村さんの知り合いのシッチオで日雇いをすることになる。
 朝6時前に起きて、エンシャーダを担いでポンペイアの町まで40分歩く。町でパトロンのカミニョンに積まれ、他の日雇い労働者とカルピ(除草)。ブラジルの夏は暑い。空を見上げては「あの雲、早く太陽を隠してくれ」と祈ったものだ。
 午後4時にパトロンが「エンボーラ!」と声をかけて仕事が終わる。帰りも、町からフンダソンまで40分、エンシャーダを担いで歩いて帰る。
 西村さんはまだJACTOの会長職にあり、JACTOの仕事が終わってからフンダソンに寄るのが日常だった。帰り道、西村さんを乗せた車が横切る。目が合うが決して「乗れ」とは言われなかった。フンダソンに帰ると窓から、生徒たちから「ボイア・フリア(冷や飯食い)!」と、からかいと激励の声がとんだ。
 辛い日があったが約束の2か月日雇いをやり通した。いよいよ帰国が近くなった日、初めて西村さんに「よくがんばった。君は1週間で根を上げると思ったが、見直した」とほめられた。日雇いをしていたことも西村さんは、母親に報告してくれていた。そこで、西村さんは私を認めてくれた。(続く)

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