西村さんが天に召されて12年(1)=広島県=松岡亜紀夫

西村俊治さん
西村俊治さん

 西村俊治さん(JACTO農機株式会社創設者)が天に召されて今月23日で12年になる。往年の西村さんを知る人も少なくなり、薫陶を受けた者として、西村さんの偉業を語り継がねばとの思いでペンをとった。
 西村さんは、1910年京都宇治の生まれ。戦前移民で町工場からたたき上げ、世界で初めてコーヒーの収穫機を開発した。農業機械分野では、ブラジルのみならず世界に冠たるJACTOグループを築き上げられた。
 西村俊治さんとの縁は、1987年4月。小生20歳(大学2年生)。日本ブラジル交流協会の7期生として、23名の大学生とともにブラジルに来てから始まった。協会生23人は1年間、お世話になる受け入れ先の企業・団体で研修する。私の研修先はポンペイア農工高校(以下、フンダソン)である。
 生き馬の目を抜くブラジル経済。今、残っている受け入れ企業・団体は数えるほどしかない。コロナ禍中、JACTOは孫の代に移っても堅実な経営を続けていると聞いた。その当時お世話になった多くの方は、鬼籍に入られ、ブラジルの土になられた。今はいただいたご恩を、自分がブラジルと日本の懸け橋となってお返しせねばと日々過ごしている。

松岡亜紀夫さん
松岡亜紀夫さん

 1987年、当時のブラジルはサルネイ大統領のクルゼイロプランが破綻し、スーパーインフレの時代だった。物の値段が日々変わり、治安も日々悪化していく時代であった。
 ポンペイアへの出発の前日にヴィレッチ(切符)を渡された。当時、国内バスのほとんどがチエテ・ターミナルから出ていた。一人、深夜のフォドビアーリア(バス・ターミナル)でポンペイア行きのバスを待っていた。静寂の中、聞こえてくるのは出入りするバスのエンジン音と物売りの声だけ。これから先、どんな生活が待っているのかと考えると心細い限りで、後にも先にもこんなに心細かったことはない。
 ポンペイアまで約500km。バスの中では、一睡もできなかった。奥地の町へ入るとタルタルーガ(加速防止め)が珍しく、カーテンを開けて、通るたび見ていた。夜明け前、ポンペイアに着いた。
 オレンジの電灯の下、待っていたのは作業着の西村俊治さんであった。どんな会話をしたのか記憶にない。西村さんが運転し、フンダソンまで連れて行かれた。それ以来3か月は、西村さんと話をしたことはなかったと思う。その日からフンダソンでの生活が始まる。
 当時のフンダソンは創設期、西村さんが先頭に立ち、生徒を厳しく指導していた。その校風の厳しさは日系社会に知れ渡りつつあった。事前に「日本から来たからと言って特別扱いはしない」と伝えられていたので覚悟はしていた。8人部屋の真ん中にカーマ(ベット)を用意してもらい。次の日から、朝からエンシャーダ(鍬)を担いで畑仕事、カフェの手入れ、畑のカルピ(除草)、クハウ(養豚場)等の農業実習。カフェの収穫の時には、虫に刺されたり、手が血まみれになったりもした。日本人移民の通った道は一通りしたように思う。
 時に、西村さんの厳しさを見たこともあった。農業実習の先生がある日来なくなった。後日聞いた話では、授業中、町のバールで休憩をしていた先生の姿を西村さんが目撃し「だめだ!先生も生徒も同じだ。生徒は一生懸命やってるじゃないか!」と激怒され、その先生は即日解雇されたそうだ。
 しかし、逆に、これはと思った人は、三顧の礼を尽くして講演をお願いされたり、実習指導をお願いされたりした。当時は、学校の強い基盤を造られたかったのだと思う。自分が死んだ後でも、学校が末永く続くことが念頭にあったと思う。(続く)

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