西村さんが天に召されて12年(4)=広島県 松岡亜紀夫

 帰国後、私は大学3年生に復学。その年西村さん来日。事前に知らせを受け、ホテルの予約。切符の手配を済ませ、成田空港に迎えに行く。財布は全部預けてくださった。
 朝は、30分前にホテルのロビーで待ち、関東圏は全部随行した。その翌年も来日され、成田空港でお迎えし、全て随行した。
 成田空港の出国手続き前には、決まって破格の小遣いをいただいた。初め断ると「これで、友達と飯でもくえ」と手渡してくださった。
 貧乏学生の私には、1か月はアルバイトをしなくてもいい額であった。西村さんは、その次の年も来日。わざわざ拙宅(広島県庄原市)までおいでくださった。当時、広島市からJRの急行電車を乗り継いでも2時間はかかる。母親と祖母は感激し、楽しい夕食会になった。
 拙宅は、昔から呉服屋を営み、祖父、父が亡くなって、祖母が女手一つで経営を続けていた。西村さんと祖母とは同じ明治生まれで馬があう。感激され「女手一つで商売がやれることは立派。飛行機賃を出すから、ブラジルに連れてこい」とも言われた。
 お土産差し上げたナイトガウンは亡くなるまで愛用されていたと聞いた。西村さんは、ポンペイアに訪ねてこられた方には、心からのおもてなしをし、何がしかのお土産を持たせるのが常でしたが、逆に、日本に行った時には、必ずお土産をもって北海道でも沖縄でもどこでも返礼の訪問をされるのも常でした。
 帰国後、小学校の教師になった。西村さんは明治の人らしく、先生を大切にしておられた。私が小学校の先生になった時とても喜んでくださった。
 西村さんは小学校1年生の時、体も小さく、勉強もあまりできず、母親が心配して、夕方、先生を訪ね「この子は、1年遅らせた方がいいのでしょうか?」と相談された。そうすると先生は「大丈夫、この子は、必ず追いつきますから安心しなさい」と答えられ、お母さんは喜んで帰った。
 その夜の西村家の食卓には御馳走が並んだそうだ。先生の言葉通り、西村さんは次第に体が大きくなり、勉強もできるようになった。
 私には、いつも「温かい先生になりなさい」と言われた。
 その後10回訪伯した。その都度、過分な歓待をしてくださった。最後にお会いしたのは2008年8月「何が食いたいか?」と聞かれたので「肉です」と答えると「お安い御用や」とマリリアのシュハスカリアに連れて行かれた。
 当時の西村さんにはSPがたくさんついていた。サンパウロ市内では前後に護衛の車がついていた。マリリアでは、マリリア警察が護衛にあたっていた。
 食事中、いかにも毛並みのよさそうな「ファビオ」という金髪の警部が「警護できて光栄です。全力で警備いたします」と挨拶にきた。
 その時、私はかすかに彼の手が震えているのを見逃さなかった。西村さんは「ええやないか、一緒に食べようや」と答えられたが、ファビオ警部は「任務ですから」と言って敬礼をして去っていった。(続く)

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