悦子は、
「皆がサンパウロへ向かった時は、ピストルを持って行ったので、何かやるのだろう、と想像していましたが、殺すとまでは知りませんでした。
ただ懲らしめる相手は、悪い奴だから当たり前だ、と子供心に思っていました。皆、無事で帰ってくるといいな、とも…」
と想い出す。
襲撃班は、サンパウロに向かう時、一旦、横山家に泊まった。
カズエが、彼らを戦場に送り出す様に、世話を焼いた。
白い四角の布に丸く切り抜いた赤色の布を縫いつけて日の丸をつくり、腹に巻いてやっ ていた。
ただ、これも全員に対してではあるまい。日高、山下は知らないという。
カズエは飛行服の様な上着を作って、襲撃班の誰かに着せてやったこともあるという。
そんなある日、悦子が家の外で遊んでいると、警官が来て、
「皆、何をしているの?」
と訊く。
「お相撲をとっているの」
と答えておいた。
位牌事件
ほぼ同時期の三月初旬。
マリリアで位牌事件なるものが起こった。
同地の敗戦派の名前を、位牌の一つ一つに「俗名何某 昭和二十年八月十五日逝去」と墨書して並べ、その背後に警告書を貼り、写真に撮って何十枚もアチコチに配布したのである。
警告書では、
「彼ら二十五人は前年八月十五日、日本人としては死亡した」
と見做して弔意を表し、その亡者が皇室の尊厳を傷つけ、御詔勅を偽造した故、
「自決せよ」
と迫り、
「南無阿弥陀仏、仏心会同人」
と結んでいた。
仏心会同人というのは架空の名である。
日本の農村に古くから伝わる呪詛に似ている。
状勢は妖気を帯び始めていた。
位牌の一枚にその名を書かれた一人が、前出の西川武夫である。西川は数枚の手記を残している。
それによると、被害はこれだけでない。終戦直後の九月九日には、脅迫状が舞い込み、その後、電話と手紙で十回くらい同種のことがあった。
位牌事件で亡者にされた後も、自宅への投石、投糞が数回続いた。投糞では「始末に困った」という。
さらに一、二度、不審人物が自宅の前庭に侵入したり、裏から内部を窺ったりしたこともあった。
溝部事件
そして、遂に銃声が響き、血が流れた。
ただし、それはサンパウロではなく、バストスに於いて…であった、
三月七日、同地の敗戦派の筆頭的存在であった溝部幾太が射殺されたのである。
夜間、自宅の裏庭で撃たれた。五十代半ばだった。
襲撃者は姿を消した。
溝部は、戦前はバストス産組の専務理事であり、戦時中はブラジル人役員の補佐役ということになっていた。が、終始、実務面での采配者であった。
山口県人で、郷里では村政面で活躍していた。一九二七年、ブラジルに渡った。
モジアナ線沿線の大農場で一労務者として働いた後、バストスに入植している。
終戦当日、東京ラジオの放送内容を知ると、直ちに組合幹部を招集、
「敗戦報を広く知らせ、その認識を徹底すること」
を主張した。
その同志となったのが、山中弘だった。
しかし、バストスでも戦勝派が圧倒的に多く、臣道連盟の支部もできていた。
両派の対立は激しく、例えば市街地では、道路を挟んで一方が敗戦派、他方が戦勝派の領域のようになっていた。
その境界線で商売をしていた人がいる。中間派であった。この人が二〇〇四年、六十年近く前を思い出して、筆者に、こう語った。
「アレほど強く、敗戦を宣伝しなくてもよかったと思う」
溝部事件から三日後、急遽、再度、パウリスタ延長線地方の敗戦派の代表者たちがマリリアの三浦勇宅で会合を開いた。
三浦も位牌事件で亡者にされた組である。
今回は、前回と同じ九地域から五十人が緊張した表情で集った。
司会・メモ役は前回と同じだった。そのメモによると。━━
溝部事件については(司会役であるが)バストス代表でもある山中が、
「原因ノ一トシテ産組改造問題ニヨル意見ノ衝突アリタル事等取上ゲ居ラレルモ殺人ニ至ルマデトモ思エズ…(略)…敗戦認識運動ノタメト見ラレテ居ル」
と報告している。
さらに、席上、各地の認識運動や戦勝派の動きが、出席者から語られているが、危機感を強く表現しているのが山中で、
「バストスハ何ラカノ方策ヲトラネバ コノ認識運動モ駄目ニナル」
と実情を明らかにし、後で、もう一度、同趣旨の発言を繰り返している。(つづく)