小説=流氓=薄倖移民の痛恨歌=矢嶋健介 著=108


「家内はよく働いてくれるが、わしの存在など無視されっぱなしだ。金にならない絵を描いて月給の半分以上費やしてなどと思っているんだよ。わしがこのアトリエを建てると言った時、親戚中が集まって反対したものだ。わしはこれだけは離縁しても建てたいと頑張った」
「どこの誰にも生きる苦しみはあるんだな、それで、彼女とはどうなの」
「事情があって里帰りしているんだ。今は中津と性が変わっているが相変わらず美しいよ。もやもやとしたこともあったが、教職にある者は淫らな風評をたてられるとおしまいだからな。絵を描くことだって趣味としては許されているが、個展なんか開けないんだ」
 そう言いながら田島は画架の絵を元の場所に収めた。彼の動作を見ながら、その繊細な神経が、田島をして小心者たらしめているのだと矢野は思った。それ故養子が務まるのかもしれぬが、もっと大胆な生き方ができたら、絵にも、より迫力がつくのに なぁ、と矢野は自分が小心者であるだけに田島を哀れまずにはいられなかった。
 
(二)
 
 数日の後、京都市に二科展があるから観に行こう。京都タワー側の駅前で待つようにと田島から電話があった。矢野は早めに約束の場所に行った。駅前には太い竹を輪切りにしたような真鍮が三本立っていて、その中から舞妓の人形が交互に顔を出していた。矢野は少しふざけた飾り物だとか、また京都らしい演技だとも思って眺めていた。ほどなく、矢野の視野に、すんなりとした中年の女性の姿が映った。少し渋い秋物の着物をはおり、バッグを小脇にしてこちらへ向かって歩いてきた。
「矢野はんですの?」
 と、にっこり笑う。その顔は田島のアトリエで見た千江子と瓜二つだった。
「千江子さんですか?」
 矢野はびっくりして、訊いた。
「思い出しまして?」
「このあいだ、田島のアトリエで貴方の肖像画を見せてもらいました。子供の頃とは、すっかり変わっているので驚きました」
「思い起してくださって、ほんとによかったわ」
 言葉遣いが柔らかで、着物姿のせいでもあるのか外国で見られないしとやかさ、人を疑うことを知らないような素直な振る舞いに、矢野は惚れぼれとしたものを感じた。手を握って強く抱擁したい衝動にかられたが、ここは日本なのだと昂まる気持を抑えていた。日焼した南国帰りの自分が、果たして千江子の眼にどう映っているのかと思うと、引け目がちにならざるを得なかった。

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