小説=流氓=薄倖移民の痛恨歌=矢嶋健介 著=92

 母はA市の女子団員の一人で、団の基金のリボンを売ったり、選手用のおにぎりを作ったりしていた。団員の中でも目立って細く、くびれた腰の線は白いエプロンの上からも美しい曲線をもち、動作がもの柔らかく、父はそういう動作に特に惹かれたらしい。瓜実顔で、長い額に頭髪をたらし、長い顔は眼鏡で少しカモフラージュしていた。皮膚が病的で頬のやつれを白粉と紅で隠していた。全体から見て顔が少し大きく、八頭身などと言えた柄ではなかったが、田舎から出たばかりの父には見目麗しい娘に見え、しかも自分に好意を寄せているものと錯覚していた。
 彼女が夜のシネマの切符を売りにきた時、その夜は帰館せねばならぬことを知りながら、娘の関心を惹くために切符を買ったり、相撲の勝負には興味をもたず、競技場を取り巻く観客の中の一角を占める女子青年の中の母の顔にばかり焦点を合わせていたのだそうだ。引き揚げる時、買った切符を母に手渡し、自分は帰るから兄さんにでも上げて、と言いおいてB市の選手団のトラックに便乗した。
 父はB市で写真家見習を終え、サンパウロ市へでて、サン・ジョン街にささやかな店をもった。そのことを母の兄に知らせたら、兄に代わってという母の手紙が届いた。片想いを続けていた父に彼女の手紙は、巨万の宝くじを引き当てた嬉しさだったに違いない。
 それから永い間の文通が続いた。父はざっくばらんに自分の性格や生活環境を知らせ、若い者にありがちな天馬空を往く甘い夢を抑えていたが、時として極端すぎて母を悲しませたりした。母は女性特有の見栄を張り、以前、他の男に求愛されたことや病歴には、手紙の中でも触れなかった。
 母はその二、三年前に肋膜を患い、川の濁り水を飲んで腸カタルに罹り、十七、八歳頃まで陸上選手として将来を嘱望されていた娘が、なだれのように病弱の身に転落していた。父にそのことは知らせなかった。文通で父の知ったのは、彼女の溺れやすさと嫉妬深さぐらいのもので、嫉妬は愛情の深さだと別に気に留めることなく、他にあった縁談を断って母と結婚した。
 その時の事情は箪笥の奥にしまってある両親の手紙をたまたま見て知ったし、母から時たま聞かされたので、私の想像はほぼ的確である筈だ。

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