小説=流氓=薄倖移民の痛恨歌=矢嶋健介 著=37

「わたしお父ちゃんに話すわ。マラリアの治療は、マラリア蚊のいない地方に移るのが何よりの養生だと言うし、それをお父ちゃんが賛成してくれたら、夜逃げの方法は岡野さんに訊くことにするわ」
「夜逃げが発覚したら、監督から撃たれるって話じゃない」
「絶対に見つからぬように実行するのよ」
 母親と娘は毎日の仕事の合間にそんな話を繰り返した。具体案は何一つ無いし、田倉に話すきっかけもなかなか見出せなかった。
 雨降りの日が続いた。そして、南国で初めての正月が巡ってきた。田倉が夢に願った餅も雑煮も調達することはできなかった。
 裏庭に出て顔を洗ったはぎは、枯れ枝のように細い腕を挙げて両手を合わせ、東方に向かって礼拝した。虚無の境地でじっとしていた。願い事などはあり過ぎて、日頃の無信者が、都合によって願をかけるのは、虫がよすぎるとも思えたが、元日には習慣からそうせずにいられなかった。
「元日の朝日ってきれいやな。バナナの葉まで喜んでいるみたいだわ」
 律子も、母の横にきて手を合わせた。お義理といった恰好である。
「ここを東へ、東へと行けば、サントスの港で、そのずっと向こうに日本がある。あの太陽さんは日本から来たんやな。わしらも日本から来てもう六ヵ月や。しどろもどろの生き方やったけど、今朝は心が清々しいわ」
 と、はぎは言った。律子はそれに答えず、両手を上下させ深呼吸をしていた。裏口の横の洗面所で浩二が末弟の稔の顔を洗ってやっている。
「そうら、きれいになったぞ。正月だから今日はきれいなべべ着せて貰うんだ」
 浩二の日課の一つだが、新年という雰囲気の中では妙に新鮮に見えた。
「浩二って気が利くね。もう、十歳だものね」
「かぞえ年の十一歳だよ」
「そうよね。ぼちぼち畑の仕事もしなけりゃ」
「毎日手伝っているじゃないか」
「そうだった、ごめんごめん。さあ、皆で朝のコーヒーを飲もう」
 律子は稔を抱いて家に入った。毎日が農園の作業で、弟たちと離れているため、休日があって一家団欒の食卓を囲めることは、何よりも楽しいひと時であった。
「お早ようさん」
 表で声がした。律子が戸を開けると、そこには大柄で、眼の大きな岡野太一が立っていた。

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