事業頓挫もセアザで再起=卸売業50年の丸山さん=時代変わり市場に日系人の姿少なく

今でも週3回、CEAGESPに足を運ぶ丸山さん
今でも週3回、CEAGESPに足を運ぶ丸山さん

 「家族が円満で、子供や孫が商売を引き継いでくれたことに満足してますよ」―。流暢な日本語でそう語るのは、CEAGESP(サンパウロ州食糧配給センター、通称:セアザ)で卸売業として夫婦で働き、今年10月に50年を迎えるという日系2世の丸山ツネオさん(84歳)だ。現在の配給センターの様子と野菜の値段の動向などを取材しようと、久々に訪問したセアザで日本語を話せる日系人を見つけるのに苦労したが、丸山さんに話を聞くことができた。

 CEAGESPを訪問した5月25日、中央パビリオンには冬野菜の白菜や大根、蔬菜(そさい)類の木箱が積み重ねられ、すでに昼時だったが、品物を運ぶカレガドールたちで賑わっていた。しかし、働く人の姿はほとんどが非日系のブラジル人で、日本人1世はおろか日系人を見つけるのも苦労するほどで、時代の移り変わりを実感した。
 「20~30年前は日本人がほとんどだったけど、今はポルトガル系やイタリア系(のブラジル人)ばかり。(日系)2世でも80代や90代になっている人が多い」と話す丸山さん。突然の訪問にも関わらず、快く応対してくれた。
 丸山さんはパラナ州バンデイランテス市で生まれ、13歳の時に同州クルゼイロ・ド・オエステ市に転住した。その後、アサイ市生まれの日系2世の夫人と結婚し、ブラジル銀行の融資を受けて米やカフェの脱穀機の商売等で一時的に儲けたが、最終的に事業に失敗。幼い子供(一男一女)を抱えながら、「フェイランテ(青空市場)でもやるか」とサンパウロ市に出てきたのが、70年代初頭だった。伝手を頼って現在のCEAGESP中央パビリオンで卸売業の仕事をやり始めたのが72年10月。その間、70年代後半から80年代半ばまではコチア産業組合の組合員にもなり、組合の従業員としてCEAGESP内にあった組合のトマト販売を任されたこともあったという。
 「日本語は話せるけど、漢字は読めない」と苦笑する丸山さんだが、コチア産業組合員時代は日本人1世の先輩たちから、仕事の厳しさを教わったそうだ。「従業員が品物の木箱に靴のまま足を掛けたり、座ったりしていると、『生産者が丹精込めて作った品物を粗末に扱うな』と1世の組合員に怒られましたね。日本人はやはり、精神が違うと思いました」と日本的な仕事の大切さを体感してきた。一方、その当時、大根の卸売り販売で大儲けし、「仕事から帰ってボルサ(カバン)から金を取り出すと、いくらでも出てくるほど儲けた時代もありました」と、その頃を懐かしそうに振り返る。
 当初、2つの販売ボックスでの卸売業から始めた仕事は50年の間に5つの販売ボックスへと増え、現在は娘婿が中心となって引き継ぎ、孫娘2人も事務仕事に従事している。従業員の数だけでも15人を雇う大所帯に成長した。丸山さんはすでに年金生活となり、週3回だけパビリオンに顔を出す生活を続けているが、不慣れな孫達に仕事の要領を伝授している。
 生産物の仕入先は主にサンパウロ市近郊のモジ・ダス・クルーゼスやイビウーナ等で、卸し先は日本食レストランなど専門業者がほとんどだという。
 丸山さんに最近の冬野菜の価格について聞くと、「先週(5月15日の週、生産地に)霜が降りたので値段が悪く、白菜(の卸値)は1箱(約25㎏)30~50レアル、大根で20レアルくらいだね」と教えてくれた。また、この2年のコロナ禍で丸山さんの仕事仲間にも死者が出たりと、商売に大きく影響を及ぼしたようだ。
 そうした中で丸山さんは「50年もこの商売をやっていれば良い時もあったし、苦しい時もあったよね。でも、一番満足しているのは家族がみんなで仲良く暮らし、子供や孫たちが継いでくれていること。金を儲けることだけでなく、家族の土台を作ることができたことが何より嬉しい」と充実した表情を見せていた。

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