特別寄稿=誰も書かなかった日伯音楽交流史=坂尾英矩=(10)=日本で生まれ変わったボサノーヴァ・スター セルジオ・アウグスト

米国のライブハウスで熱演中のセルジオ(本人提供2009年)

 「ボサノーヴァはリオで生まれ、サンパウロで育ち、バイアで死んで、日本で生き返った」とはブラジル音楽評論家、故大島守氏の名言である。 「リオで生まれた」のは世界中で百も承知の事実であるが、「サンパウロで育った」という意味は分からない人が多いと思う。
 リオ市南部の中産階級から生まれてジョアン・ジルベルトやトム・ジョビンによって大ヒットしたと伝えられているが、マスコミに持てはやされた当初は、リオの一般大衆(人口の半数を占める黒人系を主とする労働者階級)にはそれほど受けなかったのである。
 ボサノーヴァとはアイドル歌手ナラ・レオンが大島氏に英語で定義した「インティメート・ウイスパリング」のごとく、海岸へギターを担いで娘たちに歌いささやく世界なのだから庶民生活とはあまり関係がないからである。
 その反面、ヨーロッパ系移民が集まって発展した商工業大都市サンパウロではすんなりと受け入れられて、ジャズ・サンバやサンバランソと呼ばれる新しいスタイルのピアノトリオやオーケストラが続出して盛り上がった。
 だから創成期にはリオの主立った歌手や演奏家は皆サンパウロへ稼ぎに来たのである。私は当時音楽の殿堂だったTVトゥピー局ビルの隣にあった「レアル」というスナックバーの常連だったからリオの有名アーティストと顔を合わせることが多かった。
 次に「バイアで死んだ」という意味は、バイア州民から始まったロック系のトロピカリア運動に若者の人気が移り、1960年代後半にはブラジルではボサノーヴァがほとんど消えてしまったからである。いわゆる音楽家の暗黒時代で、ジョビンが「空港はブラジル・ミュージシャンの出口である」と言った時期である。
 それにもかかわらず日本では愛好者が着々と増えてBGM(バックグラウンド・ミュージック)として定着したから生き返ったわけだ。
 この大島氏の言葉はボサノーヴァ発展史を一行にまとめた傑作であろう。

ボサノーヴァ女王との運命的な出会い

 セルジオ・アウグストは1940年10月29日サンパウロ生まれ、4歳でバイオリンを習い始め、6歳からピアノを習ったという音楽環境の良い育ちであった。
 しかし小学校からはサンタ・バルバラ・ド・オエステという田舎町へ移転したので、彼は常に自分はサンパウロの田舎者であると言って町の名を誇りとしていた。
 ボサノーヴァがサンパウロで流行してきた頃にセルジオは州都の工業化学専門学校で勉強していたが、好きな道を諦められず、ギターの弾き語りで夜の世界に首を突っ込むようになり、折からサンパウロのボサノーヴァ女王クラウデッチ・ソアーレスとの運命的な出会いを果たした。
 何故運命的なのかと言うと、有名スターのクラウデッチが一介のセミプロ歌手だったイケメンの学生を見初めて、いきなり一流メンバーの業界へ引き上げたからである。私がセルジオと知り合ったのも、音楽殿堂だったクラリッジ・ホテルのケンブリッジ・バーでクラウデッチの紹介によってである。
 サンパウロのボサノーヴァ熱は、ジョアン・ジルベルトのようなギターリズムや歌声に魅せられたから高まったのではなく、モダンなメロディーやハーモニーを新リズムに乗せるピアノトリオやオーケストラなどのバンド演奏によって高まったので、その影響を受けたセルジオのギターのスイング感はリオの弾き語りとは違う味があった。
 これがカリオカのグループに好まれて、セルジオは数多いボサノーヴァ・シンガー・ソングライターの中でも、文化活動の中心地だった首都リオに住まないでスターになった唯一の人となった。また特記したいのは、彼は日本公演を行った多くのブラジル人音楽家の中で「自分が老年になった今でも昔のボサノーヴァを欧米で歌って生活できるのは日本のお陰だ」と公言した唯一の人でもあることだ。
 つまりブラジルで消えてしまったボサノーヴァを愛し続けてリバイバルに盛り上げたのは日本であることを彼は知っていて感謝の念を抱いていたのである。
 これと対照的なのは日本で人気があるボサノーヴァの御大カルロス・リラがニューヨーク公演の際ブラジル紙通信員に「最近あなたは日本へ行かないのですか?」と訊かれて「日本は払いが悪くなった。俺は土方じゃないよ」などと答えたことだ。これは日系人との付き合いが緊密であるサンパウロ州に対して日本人が少なくてボサノーヴァ発祥首都だったリオとの社会的背景の差であろう。
 ボサノーヴァ評論家の板橋純氏はボンバ・レコード発行「ボサノヴァ・レコード事典」(2001年)に米国ミッチェル&ラフ・トリオと共演しているセルジオのギター・バッキングについて「圧巻である」と書いているが、ボサノーヴァ・ギターとはジョアン・ジルベルトのように弾くものであると思っている日本人に対して注意を喚起するような鋭い指摘である。

米国ネブラスカ州リンカーン市劇場ワンマンショーの看板(本人提供)

 さて、セルジオの作曲も多くの歌手がレコーデイングするようになり、プロとしての道が開けたので、彼は専門の工業化学はあきらめてしまった。日本を代表するジャズマン、なべさださんの最初のブラジル録音LP「サダオ・ミーツ・ブラジリアン・フレンズ」(1968年)にセルジオのヒット曲「バルキーニョ・ディフェレンテ」が入っている。またLUAレーベルのアルバムCDも日本プレス盤が製作された。
 セルジオは、米国巡業の際に知り合った米人ヴィッキーさんと結婚してコロラド州デンバー市に居を構えて数年後に夫人と共にブラジルへ帰国したが、音楽事情が一変していたので広告業界へ転向してCMジングル制作に励んで順調であった。エリス・レジーナ、セーザル・マリアーノと共同でトラマというレコード会社を設立したがエリスの急死で解散してしまった。

 

人生の最後は日本参り

CDを手にして泣いたヴィッキー夫人(提供 鈴森静香)

 その後、久しぶりに私のオフィスを訪れてきたセルジオは、ブラジルの政経事情が好ましくないので夫人の故郷デンバーへ帰ると言って悲観的な様子だった。私は「君の演奏スタイルは日本人に確実に受けるからコンタクトしてはどうか」とサジェスチョンしたら、それが契機となって晩年になってから彼にふさわしい活動の道が開かれた。
 先ず日本のブラジル音楽演奏家筒井タケオ、西澤沙苗氏らとの交友が結ばれ、西荻窪ブラジル文化スペースのオーナー、ウイリーさんのアパレシーダを拠点として日本参りが始まった。
 米国パスポートを所有しているセルジオは自由に日本訪問できるのが幸いして2015年から19年まで自費で5回も訪日し、ブラジル音楽愛好者と一緒に歌ったり、関西や九州まで飛んでワークショップなども積極的に行った。
 ギャラ目的の興行ではなく、献身するその姿は、生き甲斐を感じているような若さにあふれていた。同伴した初訪日のヴィッキー夫人もすっかり日本のファンになったのである。
 そして、パンデミックになってから1年以上が経ち、日本が恋しくなったセルジオは、CD制作を計画して、マスター音源をサンパウロで録音するために2020年10月、デンバー空港を出発しようとした時に突然、心臓発作で倒れ、病院で息を引き取ったのである。79歳だった。
 日本の多くの友人やファンたちは残念でたまらず、ウイリーさんが音頭取りとなって追悼盤CDを制作することになった。日本でのライブ録音やブラジルの未発表レコーデイングなどを合わせて編集する難作業のプロデューサーはウイリーさんの友人で尺八琴古流名取りシェン・リベイロ響盟師匠が引き受けてくれて、夫人であるシーノス・ナ・フロレスタの鈴森静香文化プロモーターも協力して素晴らしい出来栄えの力作が完成したのである。

 外人アーティストの追悼盤CDを日本のファンが自主制作するのは稀なケースで、CDを受け取ったヴィッキー夫人は日本人の優しさに泣いた。そして「日本のファンに囲まれて騒いでいた彼の姿は青年時代に若返ったようでした」と述懐した。
 私がウイリーさんから訃報を知らされた時、すぐにクラウデッチ・ソアーレスへ電話したら彼女は「セルジオが?」と言ったきり絶句してしまった。彼女は昔の恋人と言うより育ての親だったから無理もない。
 私の耳には彼の言葉が今でもはっきりと残っている。
 「僕は日本で生まれ変わったんだよ」
 57年間の交友だった。

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