鐘紡の思いを継承=TNF社のエジミルソン社長(上)=工員助手からのたたき上げ=中印参入で業界競争激化

TNF社屋前に立つエジミルソン社長。後ろの給水塔には前身の「KDB」の文字が見える
TNF社屋前に立つエジミルソン社長。後ろの給水塔には前身の「KDB」の文字が見える

 「最後まで諦めないという気持ちを鐘紡(かねぼう)時代に教わりました」―。ミナス・ジェライス州南部グアシュペー(Guaxupe)市内にある紡績会社Textil Nova Fiacao(TNF)代表取締役社長を務める非日系人、エジミルソン・アパレシード・デ・モラエス氏(59)の思いだ。同地で紡績業を営んでいたKDBフィアソン社(鐘紡ブラジルの継承会社)が2011年に撤退した後、残された資産とともに負債等も引き継ぎ、14年に100%ブラジル資本の新会社TNFを正式に立ち上げた。日本から進出していた紡績会社が次々と撤退した中、新型機械導入の設備投資に加えてコロナ禍の影響も大きく、経営は決して楽な状況ではない。しかし、「鐘紡時代の思いを継続していきたい」との考えが、エジミルソン氏の気持ちを支えている。(松本浩治嘱託記者)

 TNF社の前身である「鐘紡ブラジル」が、1956年にブラジルに進出した当初は、サンジョゼ・ドス・カンポス市をはじめ、モジ・ダス・クルーゼス市やジュンジアイ市などに紡績工場を所有。全盛期だった70年代には日本から進出していたライバル会社とともに、花形産業としてその名を馳せた。その頃、サンジョゼ工場には日本からの駐在員が30家族も来ていたという。
 モジ・ダス・クルーゼス市のサバウナ地区で生まれたエジミルソン氏は、15歳だった77年、ラニフィシオ・サンタジェゼフィーナ羊毛工場に工員助手として入社。翌78年に同工場が鐘紡に吸収合併された後に頭角を現し、事務所勤務となる中で昇進していった。両親も羊毛工場時代から働いていた経験があり、妻のホザナさんも工場勤務時代に知り合うなど、鐘紡とは縁が深かった。その後、89年に鐘紡がグアシュペーに新紡績工場を建設した際、同工場で経理課係長に昇進。MBO(経営陣買収)によって鐘紡から分離独立し、「KDBフィアソン」と社名を変更した2005年には管理部門課長に任命されている。
 しかし、中国やインド等からの安い輸入品がブラジルに入るようになると、価格面で対抗することが困難になり、同業界の市場競争は激化。日本の紡績会社も紡績部門から次々と撤退していった。
 09年にはKDB初の非日系人社長に就任していたエジミルソン氏だったが、前年の世界的なリーマン・ショックの影響も大きく、11年には同社を閉鎖せざるを得ない事態にまで追い込まれた。その際にKDB最後の日本人駐在員代表から、「KDBは閉めるが、やる気があるなら別会社として引き継いでみてはどうか」と提言された。
 エジミルソン氏は、最初に入社した羊毛工場時代の経営破綻と鐘紡による吸収合併を目の当たりにしてきた経験から、「社員の生活を犠牲にはできない」との思いが強かった。また、もしKDBを完全に閉鎖する場合、11年当時グアシュペー工場で働いていた150人の従業員を、社長である自分自身が直接、解雇通知を出さなくてはならない状況だった。そうしたことから「この会社を閉めることはできない。最後まで諦めない」と別会社としての継続を決意したという。
 しかし、KDBの資産とともに負債も引き継いだ上、所得税の支払いなど税金面での対応にも追われ、「大きな挑戦だった」とエジミルソン氏は当時のことを振り返る。(つづく)

 

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