ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(199)

 「秘密結社臣道連盟は、在伯同胞が敗戦を知ることを阻止するために設立された。
 連盟は十万人以上の連盟員から集めた金で維持されている。この金は、空約束によって入手したものだ。日本へ帰国する船の切符を売ったり、予約料として受け取ったりしておる。
 そのようにして入手した莫大な金は、連盟の役員が分配している。
 連盟の幹部の一人岸本次男は、まとまった金額を受取り、敗戦派に対する脅迫を指導しておる」 
 この森田の証言は、実にオカシイ。
 彼が認識運動に参加したのは三月十一日であり、DOPSで右の調書が作成されたのは、その五日後である。
 その間に、これだけのことを自分で正確に調査することは不可能である。それ以前から調べていた形跡もない。ということは、森田は誰かから聞いた話をそのまま喋っただけなのだ。その誰かは、藤平以外には考えられない。
 しかも右の調書の内容は総て、間違っているか裏付けが存在しない。
 まず臣道連盟に秘密結社という言葉を冠しているが、臣連は終戦と共に、公開団体に切り替えていた。
 そして、精神修養団体としての認可申請を、州政府の管轄部門にしていた。が、なかなか回答がない。DOPSが反対していると判り、複数の理事が訪問、理解を求めた。
 また、臣連本部の職員であった佐藤正信(十章参照)が、自分史に、こう記している。
 「…(略)…パラカツ街98番地に大きな家を二軒借り…(略)…二階の大広間を会議室にして壁に1・50×2・00㍍のサンパウロ州を中心とした大地図を、私が書いて臣道連盟六十三支部の所在地を記し、正面には天皇皇后両陛下の御真影を掲げ、両脇に日伯の国旗を下げ、六十三の支部旗も置いてあった。本部には毎日方々から人の出入りが激しい日々であった…(略)…」
 これで秘密結社と言えるであろうか。
 次に、臣連は戦勝説を唱え、急激に組織を拡大していたが「在伯同胞が敗戦を知ることを阻止するために設立された」のではなく「大東亜共栄圏建設事業への参加」を目的としていた。
 共栄圏は、日本の敗戦と共に雲散霧消していたが、戦勝を信じる臣連には健在であった。
 さらに「十万人以上の連盟員」という点も、一部の幹部が「連盟員の数は二、三万、家族を含めれば十万以上になる」と吹聴していたにすぎない。
 しかし、これは宣伝用の数字であった。臣連のツッパン支部で青年部の指導に当たっていた山内房俊は二〇〇四年、筆者に、
 「大分、水膨れさせた数字だな」
 と話している。
 また、佐藤正信は、本部で会計を担当していたが、
 「金は無かった」
 という。
 ために、佐藤の父親(臣連理事)などが、まとまった額の私財を寄付していた。
 会費の集まりは悪かったのである。
 実質連盟員は、公称より遥かに…おそらく桁違いに…少なかったと観た方がよい。
 日本へ帰国する船の切符…云々の詐欺を働いたのは、連盟とは関係ない詐欺師グループである。これについては別章で触れる。
 入手した金を役員が分配していたことを裏付ける材料もない。
 岸本次男は四章で登場した人物だが、幹部などではなかった。
 森田は、さらにバストスで起きた溝部暗殺は「臣連の犯行である」と主張する溝部の弟から藤平宛の手紙もDOPSへ提出している。この手紙の内容にも裏付けがない。
 結果からみれば、藤平・森田は、状況を多々誤認あるいは裏付けがないままDOPSに情報を伝えていたのである。
 しかしながら、それを知らないDOPSにとって藤平、森田が接近してきたことは、興味ある動きであった。
 DOPSのブラジル人刑事たちには、日系社会の内情は判り難かった。下働きの様な形で日系人を少数使っていたが、彼らでは要領を得た調べや報告はできなかった。 
 そこにバストスで事件が起こり、藤平、森田の二人が日系社会の代表者格の人々の意を受けた形で、しかも軍の高官の紹介で、やってきたのである。
 二人は日系社会に精通しており、臣道連盟を秘密結社・犯罪組織視していた。
 しかも有能そうであった。
 そこで二人を協力者として受け入れた。
 しかし、二人の情報は間違っていたため、DOPSも状況を誤認してしまうことになる。 
 ここでも状況誤認の連鎖が起きたのである。
 そのDOPSが次に打った手が、臣道連盟の本部・支部の役員名簿の入手だった。
 前記した臣連の精神修養団体としての認可申請に関し、サンターナというブラジル人の通訳(ポルトガル語・日本語)を使って 
 「臣連の本部・支部の役員名簿を出せば、認可が得やすい」
 と伝えさせたのである。
 臣連は、素直に名簿を提出した。
 しかし認可は下りず、この名簿が後日、連盟役員の根こそぎ検挙に利用される。
 連盟は騙されたわけだ。(つづく)

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