「おい、定一。餅を食え」運平は声をかけた。
少年はノロノロと顔をあげた。蒼白だった。大正五年(一九一六)の正月がきた。人々はとっておきの餅米をとり出して餅をついた。来るべき米の収穫に備えて、どの家でも臼は作ってあった。一かかえはどの木を両手びきの鋸で輪切りにして、胴に泥を塗ってから芯を焼いてくり抜いたものだ。餅米だけの餅をつく家はなかった。マンジョカ(タロイモ)などを混ぜて少しでも量をふやそうとした。開拓したあとにはヨモギやワラビが芽をだした。もう少したって新米がとれるようになったらヨモギモチが腹一杯食える。
収容所の二つの小屋の回りで新年会が開かれた。雨期もそろそろ終ろうとしている。毎日暑かった。南国の出身者たちではあったが、これほど暑い正月にはまだ馴染めなかった。餅だってすぐ饐えた臭いになって
カビが生えてしまう。
「雪が降れば、とまでは言わんが、せめてもう少し寒いと正月らしくていいのに」
とこぼしながら汗をふきながら新年会に集ってくるのだった。
熱があって来られない人が増えていた。症状はほぼ共通していて、だるい日が続いたあと突然発熱する。一日発熱すると翌日一日なり二日なりはなんでもない。
「おこりのようじゃ」
ピンガをなめながら一人が言った。
「なに、おこり…:」
運平はそれを聞きとがめた。
おこりという一種の熱病が日本にもあることは知っている。佐倉宗吾の印旛沼の話が講談で有名だった。おこりはマラリヤ性の熱病の一種である。
「……すると、勝馬たちの病気はマレッタ(マラリヤ)なのか」
彼は険しい表情で考え込んだ。グアタパラでもリンコン河添いにマラリヤがあるという話は聞いたことがあるが、実際に病人を見たことはなかった。
通訳の大野や香山たちが鉄道工事に行ってマラリヤにかかった。十日ほど寝込んだら直ったとも言うし命からがら逃げ戻ったという者もいた。マラリヤかどの程度の病気なのか、彼には知識はなかった。彼だけなく、ここに居合わせる誰一人として知らなかった。
「マレッタ……」
「…」
人々は不安そうに囁やいた。
「おい山下。お前知っているか?」
運平は訊ねた。山下永一は台湾に養蚕指導で行っていた。
「知りません。台湾でも自分がいた処にはマラリヤはありませんでした」
永一は首を振った。
「そうか」(つづく)