小説=流氓=薄倖移民の痛恨歌=矢嶋健介 著=109

「田島さん、まだですの? ここで待つように言われたんですけど」
「僕もそうなんです。しかし千江子さんを招待するとは言わなかった。あいつ意地が悪いな」
「びっくりさせてやろうと思って……」
 笑ってもあまり大きくならない口をまたほころばせた。
「京都っていいところですね。今ここに立っていると、そこの真鍮の筒の中から舞妓さんがひょいひょいと顔を出した。戸惑っていると千江子さんが現われて、日本の女性に和服は伝統的な美を感じますね。ことに背景が京都と相俟って。僕は何だか夢の中を泳いでいるような、映画の一コマを演じているような妙な心地です」
「初めておいでたからそう思わはるんでしょう 。別にそんなに優雅な町でもありませんし、私、日本着で歩いても、そう言ってくださる方あらしまへんわ」
 そこへ田島が現われた。鳥打帽に、くたびれた洋服姿だが、背が高いのでダンディに見えた。
「二人とも早いな。さあ、行こうか」
 田島は先に立って歩いた。矢野が後ろから続くと千江子は横に寄り添った。やはり右足が少し不自由のようだが、幼時の頃ほど身体を揺すらなかった。
「矢野さんの歩み、田島さんとそっくりですわ」
「いとこだからな」
 美術館は直ぐ近くにあった。入場券を二人に渡し、田島はまた先になって入場した。千江子のことはもう知り尽くしていて、男鰥夫の矢野に引き合わせるために招待した、といった態度がどこかにあった。三区画続いているサロンに、全国から集まった絵画がぎっしり並んでいた。かなり大型の物もあったが総じて白い線の多い半抽象的な作品で、意欲的なものがくみとれた。
「二科展の作品は抽象と具象の中間をゆくもので、彼らはこれからどう発展するか見守っているんだが、わしの見るところでは具象に戻った方が成功しそうな連中が沢山いるように思うな」
 展示室に入ると田島は多弁になった。
「いつか見せてもらった《新世紀》の人々の作品とは大分違いますね。何か自由に楽しんで描いているといった感じ」
 と千江子は言った。
「楽しそうでも絵画の世界は厳しいんだよ。競争というか、依怙贔屓が激しいんだな。日展なんかでも、点稼ぎにわざわざ上京して、関係者に胡麻を擂る輩もたくさんいるんだ」
「ここにも人生の試練ありですか」
「ずば抜けた作品が出れば別だが、多くは似たり寄ったりだからな」

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