《特別寄稿》55年間続いた郷土の集いが閉会=旧チエテ移住地のウニオン会=サンパウロ市 石井かず枝

2007年、元気よく乾杯するウニオン会の皆さん(石井さん提供)

懐かしい故郷の友、モジで始まったウニオン会

 会長の無い「会」が55年も続いた? ちょっと不思議な会はどのようにして始まったのか? その昔、南麻州にほどちかいサンパウロ州ノロエステ線のチエテ移住地(現ペレイラ・バレット)にウニオン植民地があり、日本から移民して来た家族が、原始林を開拓し百姓をしていた。私の祖父母たちの時代だ。
 そのうち、土地がだんだん痩せて行き、百姓生活も難しくなり、その他種々の問題もあったのだろうと思うが、植民地を後にしてサンパウロ市近郊、パラナ方面、その他あらゆる方面へと移転して行った。ウニオン植民地には全盛時代、青年団員が80名も居たと叔父から聞いた事があった。
 それから何年か年月を経て、青年達が古里の友人と出会い「一度、集まって語ろうではないか」と相談して、モジ・ダス・クルーゼスにて5、6人で集まったのが「ウニオン会」の始まりとなった。
 それ以後、毎年3月の最後の日曜日と決めて、住所のわかった人達を誘い合って続けて来た。私も結婚してから主人と参加していて、責任者の方から「当日の司会をして欲しい」と頼まれて長年努めてきた。
 最初の頃は個人の家に集まっていたが、そのうち会館を借りるようになり、場所も「来年はスザノでやりたい」と言うように申し出が始まった。マイリポラン、イツー、ピエダーデ、イビウナ、ビラ・モラエス、ルジ・ラモス、モジ・ダス・クルーゼス、遠くはパラナ州のウムアラマ、マリンガ、ふるさとペレイラ・バレットの入植祭にも行った事があった。

参加者の顔を思い浮かべながら一枚一枚宛名書き

 遠くまで行くのは大変と言う声もあり、「中央に集まるようにしたら良いのでは?」と話し合い、メトロ・リベルダーデ駅近くの岩手県の会館を借りるようになり、2003年より同じ場所に集まるようになり便利になった。
 どんな集まりにも声を掛ける責任者が必要で、その役を引き受けておられた方が亡くなられて、四十九日の法事の時、これから先ウニオン会はどうするか、止めるか続けるかについて相談会があった。
 中々決断がつかなかった。その時、私(石井かず枝)が手を上げて「私がお世話係をさせていただきます。年に一度友達に会えるウニオン会ですから、是非やりましょう」と大役を買って出た。それから毎年3月に入ると、お知らせの手紙を書き、息子にポルトガル語に翻訳してもらい、日ポの手紙を必ず真心こめて手書きで仕上げ、110枚ほどコピーをとり、たたんで封筒に入れて、皆さんの顔を思い浮かべながら宛名を書き、郵便局へ発送するまでの仕事を主人が協力してくれた。そして楽しい集まりをして来た。

2007年の敬老者の皆さん(石井さん提供)

終盤に男女青年団歌をみんなで合唱

 ウニオン会とは、どんな集まりであったのか?
 先ず午前10時に開会、1年間に亡くなった人の名前を出してもらい、ウニオン区先亡者の供養祭を行なうことから始まる。天理教、仏教、生長の家、中でも最も多くつとめていただいたのは仏教であった。お経に合わせ参加者はお焼香をして感謝を捧げた。供養祭が終わると心の安らぎを感じた。
 次に有志の方々のご挨拶があり、遠いふるさとより足を運んで応援に参加してくださり、近況を語ってもらった事も何度もあった。そして、初めて参加された方々を前に呼び出し、皆さんに紹介して歓迎の意を表した。
 次に、80歳以上の敬老の方々を呼び出し、20名も超える事があって、お一人お一人名前と年令を発表してもらい拍手を送って、プレゼントを差し上げ、来年もお元気で参加してくださいと労いの言葉をかけて、嬉しいひと時であった。
 その日の長老の方の乾杯の音頭により、皆さんの持ち寄ったごちそうで昼食会。飲み物やお茶、コーヒーを振舞って、一年ぶりに再会できた友達と語り合う時間は最高の楽しいひと時。
 呼び名も子供時代、青年時代の〇〇ちゃん,〇〇君、〇〇さん、白髪同士で、テッちゃん、マアしゃん、たみちゃん、コウちゃん。
 その呼び方が懐かしく、私に「かずえちゃん」と呼んでくれるのは、ウニオン会で出会う幼なじみだけであった。満腹になったころカラオケが始まり、生でも自由に歌ってもらい、以前には、かくし芸もあり、舞台で踊りもしてもらった事がある。
 ビンゴも楽しみの一つで各自が持ち寄った品物を賞品として行なった。ビンゴの目的は当日の会場の借り代(アルゲール)とその他の出費のための協力の一部であった。有志の方々からの協力金があったのでこの集まりは続ける事が出来たのであった。
 おもしろかったのは子供の頃にかえるジャンケン遊びだ。男女に分けて大人も子供もいっしょのジャンケン対抗合戦は、ジャンケンポンと力を入れて掛け声かけて大きな手を「パー」と出せば、子供の小さな「チョキ」で負ける格好はおかしく大笑いとなる。紅白、勝ったり負けたり、とにかく楽しいジャンケン遊びであった。
 終盤には、青年団歌と女子青年団歌を歌う事にしていた。この団歌はウニオン区在住の方々の作詞作曲で、植民地ではいつも歌っていた。昔の青年も歳を重ね亡くなっていき、歌える人がわずかになってしまった。ウニオン会の最後は「一日の幸」で締めくくる事にしていた。

1985年3月31日、モジ・ダス・クルーゼス文協で開催された第22回ウニオン会(石井さん提供)

パンデミックの間に主だった方々が逝去

 2019年の集まりの時、100名以上の参加者の中にウニオン出身者は指で数られえる人数だった。子孫や親戚の人で賑わっている様子を眺めながら、会場を見渡して先輩の方が「この集まりも、あと何年続けられるかなあ」と言われた。
 次の年の2020年3月末を楽しみに待っていた時、コロナが始まり、ウニオン会も中止せざるを得なくなり、大至急中止の手紙を書き発送したのだった。
 年に一度の楽しかったウニオン会も、コロナ蔓延防止のために3年休んでいる間に、先輩の主だった方々もだんだん年老いて亡くなった。今後の継続も不安になり、無理ではないかと考え、幾人かの人達と相談した結果、郷土の集まりで55年間続いた事を感謝し、2022年9月に終止決断の手紙を書き、100通余りを発送した次第である。数十名の方々から「惜しいけれど仕方が無いね。お疲れ様でした」と電話やメールをいただいた。
 2019年から、3回の郵便代を使い、少し残ったお金はイビウナの宝蔵神社へ、55年間ウニオン会にご協力下さった多くの亡くなられた方々の名前を霊牌に記し、お祭りさせていただいた。
 私がウニオン会のお世話係を引き受けて20年間、手助けをしてくれた主人や息子に感謝している。そして当日の必需品の買い物、会場の準備、受付や接待等々を明るくご協力くださった増田家、石井家の皆さんに心から感謝し、ウニオン会の皆さんのご健康を祈りつつペンを置く。
 2023年3月26日

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