ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(166)

 当人が嫌疑を否定、証拠もあがらなかったのである。 
 しかし、その釈放は翌一九四五年の十一月で、終戦後である。一年以上、拘置されていたことになる。
 そういうこともあって、日系社会では、興道社犯行説は根付き、戦後も長く、半世紀以上、信じられ続ける。真実の追究はされなかった。

元結社員の証言

 が、二〇〇四年、筆者は結社員だったという人から、話を聞くことができた。
 佐藤正信という名で、パラナ州のローランジャに住んでいた。 
 知人が、それを教えてくれ、筆者は訪問した。その知人が態々、同行してくれた。
 (秘密結社の結社員などというからには相当の曲者に違いない)と覚悟して出かけた。しかし予想は全く外れた。
 市街地の普通の住宅で我々を迎えたその人は、ごく平凡な老人であった。八十六歳ということだった。
 彼は、まず、自分史を見せてくれた。表紙には「我が生涯は愛である」という文字があった。書名である。
 本文を読むと、暖かい家庭を求めて生きてきた一移民の思い出が綴られていた。
 筆者の予想からはますます離れて行った。
 青年時代、マリリアのサンタ・アンブロジーナという植民地で暮らしており、青年会長を務めたこともあった。
 そこで、興道社側の勧誘を受け、サンパウロに出て加盟した。
 この佐藤によると、興道社は、前記の様に日本陸軍の退役軍人四人によって設立されたが、その陸軍とは何の関係もなかった。当人たちだけの意思によるものであった。
 ただ脇山、吉川、山内三人はすでに六十代後半だった。当時としては老人である。
 そこで、実務は三十代末で行動力もあった渡真利が担当した。
 渡真利は、まず若手の同志を獲得しようとした。彼は以前、サンタ・アンブロジーナに居たことがあった。そこで現地へ行って、青年会の指導者たちを勧誘した。
 日米戦の経緯、日本の苦戦、在伯同胞の心構えなどを話し「この国難を克服するために協力して欲しい」と説得した。
 その誘いに、まず東谷朝夫、沢田常義という二青年が応じた。青年会の会長や剣道指導員の経験者であった。 
 次いで佐藤正信も、東谷の紹介で渡真利に会い、話を聞いた後「僕も入れて下さい」と申し入れた。
 そして彼らは、サンパウロへ移動した。 
 興道社は、同志の連絡場所とするため、市内の中心部(パルケ・ドン・ペドロ・セグンド178番)に家を借り本部とした。表向きは、雑貨卸商をカーザ・パウリスタという名で営んだ。
 佐藤は、普段は本部で会計事務を担当した。
 さて、この佐藤は筆者に、襲撃事件の興道社犯行説を明確に否定した。
 「興道社がやったのは、利敵産業は止めようという説得であり、襲撃の扇動・指揮ではありません」
 と。
 佐藤自身、その説得に出かけたこともある、という。また、秘密結社という言葉から臭うような凄みのある動きをしたわけではなかった。
 ただ(危険も伴うであろう)と、小型のブローニングを入手した。小指を切って、血で決死報国と書いたハンカチに、その銃を包み、いつも持ち歩いた。
 この話からは、農村出身の、朴訥でひたむきな青年像が浮かび上がってくる。当時の彼の写真を観ても、そうである。

真実を語る

 佐藤の同志であった東谷朝夫が『秘密結社興道社の真実を語る』という小冊子を残しているが、その中に、脇山から聞いたという要旨次の様な話が出てくる。
 「国交断絶後、日本の大使はじめ外交官、商社員は同胞を見捨て置去りにして、命欲しさに早々と引上げ船で帰国してしまった。
 彼らは臆病者であり、非国民である。指導者が居なくなった同胞は、いかに生きるべきか。日本の国難を傍観することなく、日本人としての誇りを失わず、祖国のため各々の責任を果たすべきである
 Fたちは、興道社とは関係なかった。その名前すら聞いたことがなかった。興道社の創立は一九四四年二月であるから、未だ存在していない。
 また、以前、養蚕舎や薄荷農場の襲撃が、何処かで起きたという話を耳にしたこともなかった。
 Fが襲撃を思いついたのは、父親が仲間と、養蚕家のことを非難しながら、
 「アレは、なんとかせねばならん!」
 と憤慨しているのを、耳にしたからである。(つづく)

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