さて、フラッカローリは借金完済で土地建物の抵当が解け、処分が自由となったので、この高級住宅街の工場と土地を売り、その金で少し町外れで、工場の多いバーラ・フンダ区の安い古工場を買って改修し、余った資金で原料を大量に仕入れ楽に再出発をすることが出来た。
そんなある日、業界トップでスイス系多国籍香料会社のジボーダン香料の専務取締役をしていたオタヴィオ・ズッカリ氏の来訪があった。エンリッケ専務と高等学校時代の友人ということであるが、研究室に来て、私の仕事について質問し事情を聞いて行った。
それからしばらくして私を採用することについての問い合わせが来た。
ジャグアレーの工場でスイス本社から派遣されて来た新技師長を手伝ってくれないか、と言う誘いである。
私は自分の息子たちよりも信用して可愛がってくれているヴィットリーノ社長のいる家族的なフラッカローリ社を離れて知らない会社に移るのにはためらいがあった。
それと、フラッカローリの内部で、困難の初期いち早く去ったオラシオ支配人の代わりに入り再建に功績のあったマルコス氏と私をソシオ(共同経営者)に加えると言う話もあったのである。政界のロビー活動に専念し、会社の経営から離脱した次男リーノ氏の投資分の権利を与えると言うもの。
しかしオタヴィオ氏の説得によると、ジボーダンは南米一の規模で、設備も大きく君の実力を発揮することが出来て、ブラジルまで来た夢を果たすことが可能ではないか。ジボーダンには最新の研究設備と世界中の専門書籍雑誌がとり揃えてあり自由に使えるし、ヨーロッパへの研修や視察に行くこともできるというものであった。
そこで私は考えた結果、フラッカローリで私が作っていた原料製品はすべてジボーダンから特別価格、いわゆる仲間相場でフラッカローリに提供する、という条件をつけてもらい、ヴィットリーノ社長、エンリッケ専務の了解も得て円満退職となった。
そして翌月61年の10月からジャグアレーの工業地帯にある工場へ勤務となった。
農大の農芸化学で7年後輩の鈴木日出男君が働いていたサンブラ油脂の裏で、RCAビクターのテレビ製造工場の隣に位置したため、それらの職員とも親しくなった。
その中には、テレビ技師で後に父が友人の元砲兵少佐石崎為之氏の娘の伴子さんを嫁に世話した上原喜八郎君もいた。彼はアメリカに再移住し、現在はサンフランシスコに住んでいる。