ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(25)

 逃亡

水野龍(Public domain, via Wikimedia Commons)

 ファゼンダ・カナーンでも騒ぎが始まった。九月末のことである。ここでは一四一人の沖縄県人が、サン・マルチニョと同じ事情を抱えていた。
 水野は急遽、預かり金の一部として幾らかの金を届けたが、やはり役に立たなかった。
 移民たちは、夜間、荷物を肩に担ぎ、ファゼンダをコッソリ抜け出し、鉄道線路に沿って歩き始めた。
 通訳の嶺昌の連絡で、上塚が現地へ駆けつけたが、なすすべもなかった。逃亡は止まらなかった。
 十一月初め、ファゼンダ・グァタパラで、落ち着かぬ空気が漂い始めた。ここには鹿児島、新潟、高知の各県人八七人が居たが、その中には騒ぎを起こして追放されれば、より良い賃金を稼げる所へ行ける……と知恵を働かす者までいた。 
 が、通訳の平野運平が騒ぎを未然に防いだ。これが、州政府の農務局で評判になり、平野の名を一躍上げることになる。(どうやって防いだかは、次章で記す)
 以上の四カ所からは南方へ二百数十㌔、イツエンセ線イツーのフロレスタというファゼンダにも、笠戸丸移民が送り込まれていた。
 ここは、契約期間は僅か六カ月であったが、それを待たず、一〇〇人以上が逃亡してしまった。当初の数は一八三人であったから大変な率である。全員、沖縄県人であった。
 サンパウロから上塚が重い足を運んだが、無駄だった。ファゼンダの主は激怒、翌年一月限りで、残りの全員を追放すると通告した。
 通訳は大野基尚だったが、お払い箱になった。彼は既婚者で、夫人は笠戸丸で渡航して来ており、この時、身重だった。
 そのフロレスタから北西へ百数十㌔地点、ソロカバナ線トゥレーゼ・デ・マイオのファゼンダ・ソブラードにも愛媛、山口両県人五〇人がいたが、半年で一〇人減り、仁平高通訳は首になった。彼も既婚で、夫人は大野夫人と同行してきていた。
 右の二つのファゼンダの移民はリベイロン・プレット方面のファゼンダの移民と手紙で連絡をとっていたという。
 これら一連の騒ぎの中で、皇国殖民と公使館の面々は、あっちのファゼンダ、こっちのファゼンダと、ウロウロしていた。皇国殖民、公使館、ファゼンダの間の距離は、それぞれ数百㌔ある。電報で連絡をとりながら、汽車や馬車で移動したのだから、さぞ大儀であったろう。
 さらにファゼンダ側は━━雇用した移民の渡航費の一部を負担していたので、逃亡すると、その弁済を皇国殖民に要求した。
 上塚などはゲンナリして、何度も水野に「其責ニ不堪」と辞意を伝えた。が「水野、笑ッテ不答ノ態」であったという。
 事態は、かつて初代・二代公使時代の公使館が危惧した通りになっていた。

 彷徨

 ファゼンダを出た移民は、サンパウロに戻り、その一部は移民収容所の世話で別のファゼンダに送られることになった。が、殆どの者がカフェー園の労働にはこりごりしており、それを拒んだ。しかし、次の行く先があったわけではない。ために無数の彷徨者が出た。
 例えばドゥモント組の熊本県人数家族が、首都のリオへ向かった。歩いてである。
 何故リオを選んだかは、資料類は触れていない。が、男は天秤棒で荷物を担ぎ、女は子供を背負い手に包みを持ち、天涯万里の異郷を、あても頼りもなく、ただ鉄道線路に沿って歩いて行った。
 距離は(サンパウロから)四〇〇㌔以上ある。夜は野宿だった。リオの入口付近で動けなくなってしまった。それを見た親切な住民の知らせで、日本人が現れ助けてくれた。

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