ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(191)

 七人の留置を知った別の邦人が、友人の陸軍大尉(非日系)の同行を求め、その夜、署を訪れ、七人に面会、事情を聴いた。
 大尉は「自分の手で、明日にも釈放されるようにする」と約束してくれた。
 それを知った署側は慌てて、夜中の三時頃、同地の住人で親しい関係にある岡崎司三を呼んで「七人が脱走を企てた」という調書を作り、証人として署名させた。
 岡崎はツッパンの敗戦派の活動家であった。
 七人は上部機関のマリリア署へ移送された。
 何故移送されたのか?
 人が介入すれば、事は公(おおやけ)になる。国旗が絡んでいるだけに、何処まで大ごとになるか判らない。ために脱走事件をでっち上げ、問題をすり変え、マリリアへ移してしまった━━というのだ。
 七人がマリリア署に留置された直後、そこに、さらにツッパンの戦勝派の中川三郎ら五人が送られてきた。
 彼らは前記の七人と関係があるという岡崎の証言で、そうなったという。
 その後、サンパウロのDOPSから出張してきたルイという刑事と助手の末広パウロが取調べをした。が、臣道連盟との関係を追及しただけで終わった。
 日の丸事件のことは「事が余りにも重大であるので、自分では……」
 と末広は逃げた。
 末広は、戦勝派から「オールデン・ポリチカの犬、岡っ引き」と毛嫌いされた男で、正規の刑事ではなく、その下働きをしていた。(オールデン・ポリチカ=DOPS)
 被留置者は、結局、中川ら五人は十四日、松本ら七人は二十八日に釈放された。
 ツッパンでは、地元の戦勝派が盛大な祝賀会を開いて彼らの労をねぎらった。
 一方、その釈放に関しては前記の岡崎司三やその敗戦派仲間が猛烈な反対運動を行った という。
 この事件では、坂根英一ほか一人が起訴された。二月、裁判の結果、坂根に対しては「当局の許可なしに武器を持ち歩いた」という理由で、三カ月の禁足と二〇〇クルゼイロの罰金、もう一人は無罪の判決が下った。
 しかし事はこれで収まらなかった。

 吉川中佐を訪問

 正月早々ツッパンで起きた日の丸事件は、直ぐパウリスタ延長線地方の邦人たちに伝わった。キンターナの押岩嵩雄の耳にも入った。
 以下は(前章で記した)筆者が二〇〇〇年に押岩を訪問して聴いた回想談の一部である。
 「日の丸が辱められるという事件の発生に、これはなんとかしなくてはならないと、ワシは仲間たちと話し合った。
 といっても、すでに警察が我々の動きに警戒の目を光らせており、どこかで会合を開いて…という様なわけには行かず、何気なく道で行き会って立ち話をしながら、そうした。 
 我々が論じたのは、現在のコロニアの乱れ、堕落、不祥事は、そもそも何処から来たのか…と。
 それは軽率な敗戦認識運動からだ…と。
 では、その敗戦宣伝派の大物をヤロウ…と。
 世間では『敗戦を認めない狂信者が、認識運動の推進者を黙らせるためにヤッタ』と決めつけているが、そうではない。
 我々の場合は、勝ったとか敗けたとかいうことよりも、コロニアの指導者たちが『敗戦』を軽々しく宣伝、しかも、その結果起こった憂うるべき事態を収拾できないでいる…そのだらしなさを怒り、彼らの中心人物をヤッテ覚醒を促そうとしたのだ。
 戦争の勝敗問題が動機ではなかった」 
 右の談話中のコロニアは、他地方も含めての邦人社会…改まって表現すれば日系社会…を指す。
 憂うるべき事態とは、戦勝・敗戦両派の対立の激化、皇室や日の丸に対する暴言などのことである。
 それがツッパンでのブラジル人警官の日の丸に対する侮り、岡崎たちの行動を招いた、と憤怒したのである。
 その憤怒が敗戦宣伝派の大物襲撃に転化したのだ。
 押岩談、続く。
 「その頃、臣道連盟がサンパウロに事務所を開いたと聞いて、ワシは同志の谷口正吉ともう一人と、三人で出かけて行った」 
 臣道連盟が、市内のアベニーダ・ジャバクアラと交差するルア・パラカツ九六に本部事務所を開いたのは、一九四六年、日の丸事件があったのと同じ一月であった。
 押岩談、再開。 
 「理事長の吉川中佐に会って、
 『時によっては、我々は敗戦宣伝派の指導者をヤリますが、後始末をして欲しい。受けて戴けますか?』
 と訊いた。
 時によっては…というのは、場合によっては…という意味だが、
 『受けられない』
 という返事だった。(つづく)

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