以上はDOPSの5号室の被留置者の話である。別の部屋、別の警察にも被留置者はいた。サンパウロ以外でも同じだった。邦人の留置は無数に行われていた。
岸本は、彼が留置された一九四三年三月の時点で、その数は「一万件と目されている」と記している。
五月。
二十七日の半田日誌は、山本五十六連合艦隊司令長官の戦死を記している。
三十日のそれには「アッツ島守備隊、全滅の報あり…(略)…我々も民族永遠の発展のため微力を尽くさねばならない」とある。
サントス追い立て
七月八日。サントスの枢軸国人に、突如、立ち退き命令が下った。
なお、ここで枢軸国人と記したが、資料類は日独人と記しイタリア人を外しているものもある。
これは、取締りはイタリア人に対しては、比較的寛大であったことによる。ブラジルの人口に占めるイタリア系の比率は、ポルトガル系に次いで多く、官憲内部でも相当の勢力を持っていた。その影響であろう。
立ち退き命令が出たのは、その直前にブラジルとアメリカの商船五隻が、サントス出港直後、撃沈されたためである。
魚雷が次々命中、物凄い火柱が天に向かって吹き上げ、轟音が響いた。
その様は壮絶そのものであった。翌日には、海岸に波で打ち上げられた船員の死体が幾十も累々…という凄惨さだった。
撃沈は、サントスに潜む枢軸国のスパイが、無線で、商船の出港を潜水艦に知らせたためと疑われ、そのトバッチリが、日独住民のすべてに降りかかった。
立ち退き命令は急で、住宅や職場に警官がやって来て、何時何分までに駅に行き汽車に乗れと命じた。家や家具、仕事のための施設や車両、道具など、すべて、そのまま放置しなければならなかった。
路上で捕まり「すぐ駅へ行け」と命じられた者もいた。
街は、銃剣を持った州警兵が駆け回り、市民の喚声が上がり、車輪が軋る音が響き、騒然となった。
駅からは何度かに分けて、汽車に乗せられ、サンパウロの移民収容所に送られた。
その後、市内に寄寓先のある者は、そこへ行くことを許されたが、無い者は再び汽車に乗せられ、内陸部へ追い払われた。サントスへ戻ることは禁止された。
立ち退きを命じられた人数については、概数で日本人四千人、ドイツ人千人とする資料もあるが、別の数字をあげる資料もある。
二十一世紀に入ってから、日本から訪れた映像作家の松林要樹氏が、サントスの文協で、偶然に発見した資料には日本人五八五家族、内沖縄県人三七五家族と記されていたという。
この追い立ての折、サントスに高柳清という人が居た。当時二十歳であったが、それから六十七年後の二〇一〇年、八十七歳の時、筆者にこう語った。
「私はコチア産組のサントス倉庫(事業所)に勤務していた。警官がやってきて、私の外国人鑑識手帳を取り上げ、今日の五時の汽車に乗れ、手帳はその時に返してやる、と…。
二世の職員はブラジル国籍所有者だというので、対象外に置かれた。
私は汽車に乗せられサンパウロへ来た。が、収容所がすでに一杯で入れず、汽車の中で一晩過ごした。
翌日、組合本部に連絡をとり、当時組合に居った(インテルベントールとして政府側から派遣されてきていた)カピトン=大尉=に迎えにきてもらい、出た。
収容所の中は大変な混乱状態で、バラバラになってしまった家族もあった」(インテルベントール=監査官)
バラバラになったのは、サントスで警官たちが同一家族の人間に別々に会い、異なる汽車に乗る時刻を指示したため起きた。
収容所で会えた家族もあったが、会えぬ家族もあった。
サンパウロに奇遇先がなく、収容所から内陸部行きの汽車に乗せられた者は「二時間以内には降りるな、後は勝手にせよ」と言われた。
自然、何処に行ったか判らなくなってしまったのである。
以上の追立ての荒らあらしさの背後には、当然、米英側の要求があったであろう。
追い立てられた人々が、サントスに残した財産は、タチの悪い住民に奪われた。
この追い立てに遭ったある山口県人の場合は、次の様な具合であった。
「自分は、貨物自動車でサントス市内を通行中、警官に呼び止められ引っ張られた。自動車は放棄させられた。