ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(185)

 山内のことは措くとして、
 「この詐欺事件も含め軍艦来航騒ぎは、本(もと)をただせば流言飛語の戦勝説によって起きている。その誤りを正す必要がある」
 という声が敗戦派の一部で上がった。
 警察が前記の様に「日本人自身による収拾を要求した」ことも影響していた。
 ここで、一つの計画が企てられる。時局認識の啓蒙運動である。この場合の時局とは敗戦を指す。
 表面化したのは一九四五年九月つまり終戦の翌月だった。
 有志が、そのための集会を、サンパウロの中心部近くルア・カンタレイラの常盤ホテルで開いた。戦勝派を含む邦人一般に参加を呼びかけた。
 この企てについては、
 「そういうことは、やっても無駄である」
 という忠告もあった。
 「宗教でも恋愛でもそうだが、人間何かを強く思い込んでいる時、反対のことを言っても駄目であり、時をかけてその熱を冷ます以外ない、急ぐと感情的になって、その思い込みの度を強めるだけで逆効果になる」
 というのだ。
 後から考えれば、人間観察に老熟した人の言であったわけだが、有志は実行した。
 この時点では、戦中の敵性国人に対する取締り令が生きていて、集会も禁じられていたため、わざわざ警察の許可をとっての開催であった。
 それには戦勝・敗戦両派から百余人が参加した。
 開戦まで日系社会の指導者格と見做されていた人々のうち宮腰千葉太、宮坂国人、下元健吉が出席して、時局に対する所感を述べた。
 このうち宮腰、宮坂は有志に担がれた口であった。特に宮坂は余り乗り気ではなかった。
 下元は積極的に動いていた。終戦一週間後には、コチア産組の地方代表を集めて、敗戦認識を唱え、以後も組合員の説得を続けていた。
 三人の話は宮腰、宮坂の場合は説得力が無かったという。どうも当たり障りのない内容だったようだ。
 下元の場合は、戦勝派に対して「弾圧的言辞」を発し、会場に居た彼らを激怒させてしまった。
 しかも下元発言は広く戦勝派の間に伝わった。
 企ては失敗した。
 それまで両派の関係は、意見の違いに過ぎなかったが、以後、対立的な空気を醸し始めた。
 この集会を開いた有志たちの中心人物は、野村忠三郎であった。この人は、本書ではすでに七章で登場している。戦前の段階で、日系社会の次代の指導者と目されていた。
 集会から間もなく日本の外務省から、終戦の詔勅と東郷外相の通達が、日系社会に届けられた。英文の電報で万国赤十字社を経てである。
 誰かが、戦争の勝敗問題に関して、日系社会に混乱が起きていることを、電報で東京に報せたのだ。多分、スエーデン領事館の日本・日本人権益保護部であったろう。
 これを機に、野村たちが再び動いた。
 「詔勅と通達を日本語に訳して印刷物にし、地方の邦人集団地の代表者を招いて、伝達する」という新計画を思いついたのだ。
 その際、伝達の経緯と時局認識を提唱する趣意書を添えることにした。これに、次の七人が署名した。
 脇山甚作
 古谷重綱
 宮坂国人
 山本喜誉司
 蜂谷専一
 宮腰千葉太
 山下亀一
 このうち宮腰、宮坂以外も、やはり開戦まで日系社会の指導者格と見做されていた人々である。
 いずれも野村たち有志の求めに応じてのことであった。
 脇山以下六人は、すでに紹介ずみである。
 脇山は、前章で触れた様に興道社の創立者であった。その興道社の後身の臣道連盟は戦勝説をとっていた。
 しかし脇山は敗戦を認識、連盟からは遠ざかっていた。
 この脇山の名を筆頭に掲げたのは「日本陸軍の大佐も敗戦を認めている」ことを強調するためであったろう。
 七人目の山下は戦前コチア産組の理事長だった人であり、前回の集会で戦勝派の反発を買った下元の代わりであったろう。
 伝達式は十月十日、コチア産組の講堂で行われた。
 地方からの代表者多数が出席した。一般からの参加者もあった。
 席上、野村が詔勅の翻訳文を奉読した。その様は一資料の古風な表現を借りれば
 「…はふり落ちる涙に頬を濡らしつつ、時に絶句し時に唇を噛めば…」というもので、会場粛として声がなかったという。
 伝達式の後、趣意書の署名者と野村たち有志が地方を巡回、説明会を開き、戦勝派を啓蒙することになった。時局認識を促すためである。
 詔勅が届いた以上、戦勝派も敗戦を認めるであろう、と楽観視していた。
 しかし、この読みは完全に狂った。(つづく)

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