《記者コラム》第1アリアンサが一世紀の節目=弓場農場健在、記念石碑を序幕

序幕した記念碑に立つ弓場的会長、西尾ロベルト氏、同公園土地寄付者の子孫、輪湖氏の子孫、永田翼氏、関副知事(左から)

約束の地アリアンサに生まれた弓場農場

 「ボクが10歳の時に、伯父さん(弓場勇)から『100年経たないと歴史にはならない』と言われたけど、その時はよくわかりませんでした。でも今日その時が来ました。ボクが今、ここに立たせてもらっていることを感謝します。今日序幕する石碑はボクらには重いものでしたが、次の世代に残そうと思って建立しました」
 11月20日、第1アリアンサ文化体育協会(ACEPA、弓場的会長)が入植100周年を記念した石碑除幕式でそう語っているのを、関昇一郎長野県副知事がうなずいているのを見て〝次の一世紀〟が始まったと感じた。
 第1アリアンサはサンパウロ市から北西に約600km奥のミランドポリス市の一地区で現在人口は約1千人、うち約250人が日系人だ。主な産業は果樹や野菜などの農業・牧畜・養鶏で、それらを中心にした生活をしている。

弓場勝重さん

 250人中の約60人が弓場農場に住んでおり、今も日常会話では日本語を使うユニークなコミュニティを維持している。同地に1925年に弓場農場を創立した一人、弓場勇の末娘の勝重さん(76歳、2世)さんは「何にもない処から始めたんだから、すごいよね。100年って考えると、なんだか身震いするよ」としみじみ語った。
 心に残る父の言葉を尋ねると「お父ちゃんはいつも言っていた。ここは俺が作ったんじゃない、神が作ったんだ。神の意思に従って、俺は仕事をしただけ。俺が死んでも、それは神の計画だ」と答えた。アリアンサという言葉は「共生」「約束」などの意味を持ち、旧約聖書で神がイスラエルに与えたという約束の地「カナン」になぞらえて、キリスト教徒だった弓場勇はそう考えていた。彼は1976年12月、70歳で急逝した。

矢崎勇「100周年の節目にここで生活できているのが幸せ」

矢崎勇会長

 同農場広報役だった故矢崎正勝さんの息子、コミュニダーデ・ユバ協会の会長・矢崎勇さん(44歳、2世)も「今日から三桁になる。一世紀はすごいことだと思うけど、日々の生活を一生懸命に過ごしてきたことの積み重ね。100周年という節目の年に、ここで現役として生活できているのが幸せ。自分たちで100年祭を何とか切り盛りできていているのが幸運だと思っています」と謙遜した。
 同農場の敷地面積は合計約50アルケール。農業としては主にゴヤバ、マンゴー、ザボン、デコポン、カボチャ、シイタケ、自家用に稲作栽培などをしている。現在主な収入源は、近隣農家の生産物を集めて、ここの作物と一緒にドラセーナやトゥピーパウリスタなどのスーパーに卸す仲介配送業だという。
 9月に開催された100年記念の盛大な盆踊りについて尋ねると「今は近くの町ですら、盆踊りをやらないところも増えた。だから、会場を準備しながら『本当にこんな大規模な盆踊りがボクらにできるのか』と不安になったけど、結果的に4千人も集まってくれた。皆が団結してくれ、アリアンサが本来持っているパワーが発揮されたと思う」と笑った。

 関長野県副知事、山岸喜昭県議会議長、羽田健一郎長野県町村会会長ら8人の慶祝訪伯団の訪問を受けた同農場に住む弓場絢さん(99歳、長野県出身)は、「弓場勇さんと同船者です。1925年に家族に連れられて10カ月の時に来伯し、最初からアリアンサで生活しています」と自己紹介した。創立2年目、まさにアリアンサの生き証人だ。
 弓場勇さんの弟と結婚してここに住み続け、現在は同農場の最高齢者だ。8人の子供がおり、バイオリンづくりをする健作さん(米国在住)、陶芸をする光枝さん、的会長の母親でもある。関副知事から「弓場農場のゴット・マザーですね」と言われると恥ずかしそうに笑みを浮かべた。

弓場絢さん(左)を紹介する赤羽さん(奥)、関副知事(右)山岸議長

原始林の真っ只中に開拓小屋を築いた北原夫妻

 アリアンサ移住地史編纂委員会編『アリアンサ移住地創設四十五年』(1970年、www.brasilnippou.com/iminbunko/Obras/45.pdf)等によれば、ここは画期的な新天地だった。それまでは、平野植民地のようなすでに移住した人が独立農になるために入植したり、桂太郎首相の後援を得て渋澤栄一を創立委員長として伯剌西爾拓殖会社が設立されて始まった桂植民地のように日本の資本で作られた。
 このアリアンサは、長野県が旗振り役になり、県民の海外移住を促進するために設立された「信濃海外協会」が民間主導で建設を進めたからだ。1922年、日本力行会の永田稠(長野県出身)とブラジルから一時帰国中の輪湖俊午郎(長野県出身)が尽力し、当時の長野県知事や同県出身の貴族院議員、国会議員らを動かしてこの計画は始まった。
 1924年5月、同協会はノロエステ鉄道沿線ルッサンビラ駅附近に5525haの土地を選定。同年10月に日本から派遣された永田が購入契約を締結し、11月20日に大工や数人を引連れて同駅から37キロも離れた原始林の真っ只中に開拓小屋を築いて北原地価造夫妻(長野県出身)が露営を始めた。その日が入植記念日となっている。その北原夫妻が最後に住んでいた家は現在、弓場農場内に移設されて史料館になっていて見学できる。
 日本で入植地が売りに出されてすべて売り切れ、翌1925年6月から政府の渡航費補助を受けて日本と北米からの入植が開始された。

式典であいさつをする関副知事

大正デモクラシー期らしい特異な人物続々

 当時の時代背景としては、1923年9月の関東大震災の影響が大きい。国内で生活苦に陥った人々は海外に活路を求め、出移住圧力が高まった。しかも翌1924年7月1日、それまで最大の日本移民の送り出し先であった米国では排日移民法が施行され、門戸を閉ざした。困った日本政府はブラジルに狙いを定め、1924年から大震災罹災者の南米移住奨励の趣旨で、渡航費全額補助の予算を国会で通し、国策移民時代が到来した。
 北米では日本移民への差別や圧力が強まった時期であり、そちらを諦めて南米に転住する先としてアリアンサは選ばれた。そのタイミングで建設が始まったため、多様な人々が目指すようになった。
 それまでは日本で食い詰めた人なども多かったが、アリアンサには予め日本で土地を購入してくる財力がある人が入植したので、ある程度の資産を有し、教育程度の高い人が多かった。天体望遠鏡、ピアノや多数の蔵書を持ち込んだ人がいたといわれ、日本移民のなかでは異色の存在だった。
 高浜虚子の愛弟子で「ブラジル俳句の父」佐藤念腹(謙二郎)は1927年に、東京帝大工科を卒業した橋梁技師で俳人の木村貫一朗(圭石)も1926年に、短歌界ではアララギ派の島木赤彦に師事した岩波菊治も同年に入植し、この3人が中心になって当地最初の文芸雑誌『おかぼ』をここで創刊した。戦後の日系文学をけん引した武本由夫も1930年に同地に入植した。
 1928年に入植した与謝野素は詩人・与謝野鉄幹の甥であり、農業技師として活躍した。その他、台湾総督府の官吏をした移殖民研究家の渋谷慎吾(東京帝大法科卒)も1928年に入植、民本主義の提唱者として有名な東京帝大法科の吉野作造の姪・吉野友子も女子師範学校を卒業して1928年にアリアンサに入るなど、大正デモクラシー期らしい特異な人物が多々ここに入った。
 先輩移民からは「銀座をブラブラ散策するような文化的生活をしていたインテリたちが原始林開拓に憧れて移住してきた」とみられ「銀ブラ移民」と揶揄された。
 この成功を受け、信濃海外協会は1926年と1927年にアリアンサ隣接地を追加購入して、鳥取県海外協会に薦めて第2アリアンサ、富山県海外移民協会に第3アリアンサ、熊本県海外協会にヴィラ・ノーバの建設を進めた。この4年間余りで1千人以上の日本人がこの地に住み着いた。

会場全体の様子

記念石碑序幕と記念祭

 当日は14時から北原地価造広場で100周年記念石碑の除幕式が行われ、100人ほどが出席した。石碑には「神光満天地 ありあんさ入植100周年記念之碑」と刻まれている。同公園左奥には「阿りあんさ最初之入植地点」という1955年に建立された石碑がある。アリアンサ開始地点に100年の石碑も序幕された。石碑は昨日ギリギリに到着したばかりで、主催者一行はヒヤヒヤしていたという。
 弓場農場のコーラス隊がハレルヤなどを歌った後、記念ミサが行われ、安田じゅん、熊本小次郎両牧師らが説話をした。続いて石碑のテープカットと序幕が行われ、来賓として開拓者親族代表で永田翼氏は「祖父の永田稠は『コーヒーより人を作れ』と唱えた。ここで皆さんが頑張った成果が今日であり、次の100年にどうつないでいくかも皆さん次第」と述べ、石碑建設などに支援した宮坂国人財団の西尾ロベルト理事長も「この石碑は200周年に向かう第1歩だ」、ブラジル力行会の吉岡黎明氏は「父が19298年に第3アリアンサに入植し、私が生まれた」と述べ、ノロエステ日伯連合会の本田秀人会長も祝辞を述べた。
 その後、会場を第1アリアンサ会館に移動し、改めて100周年記念祭を15時半から行った。最初に先没者への黙祷、両国歌斉唱、阿部守一県知事からのビデオレターが上映され、続いて関副知事は「JICAボランティアの赤羽晋治さんの活躍が地元テレビで放送され、長野ではアリアンサはサンパウロより有名になりました。今日はその強い絆を再確認する日になりました。これを引き継いでいくよう、日本語学校支援などを続けていきます」と強調した。
 さらに清水享在サンパウロ総領事は「100年経ってもここでは色濃く日本語と日本文化が残っている。これは先人の努力と日本語学校の成果」、庄司アレシャンドレ長野県人会副会長も「次の100周年に期待します」と挨拶し、宮崎明博JICAブラジル所長も「今後も可能な限りの支援を惜しみません」と約束した。
 県から記念品の交換、75歳以上の高齢者に記念品贈呈が行われ、長寿者を代表して庄司昭さんが「次の100年を乗り越えられるように」と次世代にエールを送った。くす玉割り、鏡開きが行われ、青年会の庄司孝会長が「みんなでより良いアリアンサ村を作っていきましょう」と次世代を代表して抱負を述べた。
 最後に晩さん会および日本語学校生徒の発表となり、移民史クイズなどが日本語で行われた。8時間かけてじっくりと炭火で焼いた水牛のアバラ肉なども振る舞われ、来場した350人は心行くまで舌鼓を打った。

 ミランドポリス市長のエデルソン・パンタレオン・デ・ソウザ氏は「ブラジルを約束の地だと信じてくれてありがとう。日本文化はわが市の文化向上に貢献してくれている。2028年という私の市長任期までの間、全力で皆さんに手を貸すことを誓う」と感謝した。
 序幕された石碑には第1アリアンサは日系74家族(252人)、第2は32家族(105人)、第3は36家族(89人)とある。200周年には、どうなっているだろうか。(深)

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