グロリア・マリア死去=黒人女性初のTVレポーター

グロリア・マリア(自身のインスタグラムより)
グロリア・マリア(自身のインスタグラムより)

 ブラジル初の黒人女性のテレビ・レポーター、キャスターとして知られたグローボ局のグロリア・マリアが1日、癌のため亡くなった。2日付現地サイトが報じている。
 1949年にリオ市北部の洋裁家の娘として生まれたグロリアは幼い頃から成績優秀で、リオ・カトリック大学でジャーナリズムを専攻。その一方で、リオのカーニバルの伝統的なブロッコ「カシケ・デ・ラモス」でプリンセーザ(姫)を務めてもいた。
 ジャーナリズムの世界に入ったのは1970年で、リオ市のラジオ局を経て、1971年にグローボ局に入った。当時の報道レポーターはテレビ画面には登場していなかった。
 だが、間もなく、グローボのリオ支局RJTVのニュース番組「ボン・ジア・リオ」のキャスターとなり、1977年頃から全国放送の「ジョルナル・ナシオナル」のレポーターとして活躍。米国のカーター大統領(当時)やブラジル軍政最後の大統領ジョアン・フィゲイレード氏にもインタビューしている。フィゲイレード氏からは「あの黒人女を近づけさせるな」とも言われたという。
 取材のため、世界100カ国を訪れたとも言われており、取材者の中にはフレディ・マーキュリーやマイケル・ジャクソン、マドンナといった音楽界のスターやレオナルド・ディカプリオなどの人気俳優なども含まれている。
 また、1982年のフォークランド紛争や96年の在ペルー日本大使公邸占拠事件、96年のアトランタ五輪や98年のサッカーW杯などでもレポーターを務めた。
 1986年にグローボの看板番組「ファンタスチコ」のスタッフとなった後、1998~2007年は同番組の司会を務め、広く知られる存在となった。
 その後はグローボのレポーター部長となり、同局の大御所レポーターとして知られた。亡くなる前年までレポーター、キャスターとしての職務を続けた。
 2019年に肺がんを患い、免疫療法でそれを克服。その後に起きた脳転移は手術で抑え込んだが、昨年半ばに見つかった新たな脳転移では思うような治療効果が得られず、昨年12月から休職していた。

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 黒人女性レポーターとして有名だったグロリア・マリアを追悼し、ネット上ではありし日の彼女のレポートの拡散が行われたが、特に人気だったのが外国人音楽スターへのインタビュー。英語はあまり上手ではなく、クイーンのフレディ・マーキュリーには「その質問の答え、たった今言ったばかりじゃないか」と言われ、マイケル・ジャクソンには「アイ・ラブ・ユー・ブラジル」の一言で取材を終えられた。ただ、一生懸命さが伝わるからか、ローリング・ストーンズのミック・ジャガーやマドンナには笑顔で受けいれられる一幕も。こうした点でも記憶に残り、愛された女性だった。

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