連載小説=自分史「たんぽぽ」=黒木 慧=第9話

 また、畑浦の部落では牧山の頂上まで四国八十八箇所を真似て石像が並んで、まんじゅうや人参の豆腐あえなどを係りの女の人達が振舞ってくれた。私はいつだったか、真新しい人絹のシャツを買ってもらって嬉しくてたまらなかった。その匂いが祭りのイメージと重なって今でも懐かしく想い出せる。この頃の記憶はまだいくつか思い出すこともあるかも知れないけれど、話を戦後に進めていこう。

    戦後の食糧難と開拓事業

 戦後、しばらくの食糧難は戦前以上でアメリカから〈ララ物資〉と言って救援食糧も入って来たが、日本国民の絶対量が足りず、特に私の家は貧乏で大豆粕やコーリャンの配給物、それに南爪団子汁の水で腹を張らせていた。野草も食べられる物は何でも食べた。私より七つ下の巳知治は真っ裸で腹ばかり水腹で大きく真っ黒に土にまみれて遊んでいた夏の日の情景を想い出す。
 戦後日本政府は食糧増産に力を入れ、空いている土地はどこでも食糧作物が植わっていたし、農地改革で戦前の旧地主の土地を接収再分配のために耕地整理を断行した。
 私達の富島町でも開拓地を含む三㌔四方位の広大な平地があって、そこに十五㌔位奥の耳川から水路で水を引いて来て水田を造ろうと言うことで、日知屋開拓農業組合と言う組織を作って国の資金を借りて、その造成が始まった。
 私の父、弥吉はその組合の組合長の一番の補佐役としていつも自転車で走り回って仕事の進め方、見廻り、そして土地の分配ではその不公平を少しでも減らすべく、その説得など大変だったようだ。ある時は土地を失った旧地主からずいぶん責められて、口喧嘩になったこともある。
 私の家も耕地整理のお陰で前よりは大分耕地が増えて、田を五反歩位所有する様になった。そのあと牧山の岬に近い所などに笹の根っ子のからみ合った所を、私が開墾して二反歩余り開いて全部で八反近い農地に拡げた。
 ともあれ戦争が済んでしばらくは、母が主体の小さな農業を行って生活を支えていた。私達はまだ学校で、学校から帰るといつも農作業を手伝った。夏の暑い日、からいも(さつまいも)畑の中に腰をかがめて、いものつるをはね上げて草取り。子供だからいやいやながら畑について行って手伝った。母は鼻唄を歌いながらいやな空気をやわらげるのであった。もちろんこんな時、弟の三美も連れ出して手伝わせた。
 日知屋開拓の整備事業が始まると私の次姉、信代はそこの事務所の仕事に働く様になった。あとで信姉が当時の話をすることがあったけど、父、弥吉はいつも信代姉の給料を先取りしていたと笑っていた。

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