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湿地帯から南米金融の中心地へ=サンパウロ市ファリア・リマの半世紀

2025年9月3日

万華鏡2
ブリガデイロ・ファリア・リマ大通り(Foto: Agent010, via Wikimedia Commons)

 サンパウロ市西部〜南西部に位置する金融街ファリア・リマは、かつての湿地帯から今や多国籍企業や投資ファンド、スタートアップがひしめく南米最大級のビジネス中枢へと変貌を遂げた。その背景には政治的決断、都市政策、そしてグローバル市場の要請が複雑に絡み合った変遷の歴史がある。9月2日付ヴァロール紙など(1)(2)が報じた。

 ファリア・リマとは、正式には「ブリガデイロ・ファリア・リマ大通り」と呼ばれる幹線道路に沿って形成された都市空間だ。ピニェイロス、ジャルジン・エウロッパ、ジャルジン・パウリスターノ、イタイン・ビビ、ヴィラ・オリンピアといった高級地区を貫いている。

 工業化に伴ってサンパウロ市経済が発展する中、同地域は長らく都市化から取り残され、ピニェイロス川沿いの氾濫原だった。ジェトゥリオ・ヴァルガス財団(FGV)の経済学者アルベルト・アイゼンタール氏は、「政治機能はリオからブラジリアへと移され、サンパウロ市が中心となることはなかった。だが、サンパウロ市は工業化により経済と金融の主導権を握り、生活水準には大きな格差が生じた。一定の農業生産力があったが、工業化で飛躍的に拡大し、都市が資本を蓄積することで金融市場が形成された」と分析する。

 50〜60年代はセー広場とレプブリカ広場間の旧市街が商業の中心だったが、70年代以降は徐々にパウリスタ大通りへと移行し、その後数十年をかけてファリア・リマは金融拠点としての地位を確立した。

 ファリア・リマが現在の姿へと変貌を遂げる過程には、明確な政治的決断と都市政策が大きく関与している。この名の由来となったジョゼ・ヴィセンテ・デ・ファリア・リマは、リオ市生まれの軍人で、1965~69年にサンパウロ市市長を務めた人物だ。

 都市の急速な自動車化に対応すべく、大胆な道路網整備計画を推進。5月23日大通りやマルジナウ・ピニェイロスなど、現在の幹線を多数開通させており、当時「ラジアル・オエステ」として構想された西部幹線は、後に彼の名を冠し、現在のファリア・リマ大通りとなった。

 都市開発に大きな足跡を残したことから、彼の名は今日の都市機能の象徴として語り継がれ、95年には、当時のサンパウロ市市長パウロ・マルーフによる「ファリア・リマ都市開発事業(Operação Urbana Faria Lima)」が開始され、用地取得を促進し、人口密度の向上を図る垂直化政策を導入。これにより、多数の高層ビルが建設され、大規模金融グループの本社に適した環境が整備された。

 こうした都市政策は、金融市場の国際化とグローバルな競争環境に対応するためのものであった。ITインフラ用のフリーアクセスフロアや高い天井といった最新設備を備えた建物が求められ、既存のセントロやパウリスタ大通りのビル改修よりも新築タワー建設が選ばれた。

 ファリア・リマは「ブラジルのウォール街」としての金融街機能を強化しつつ、近年ではスタートアップやテクノロジー企業の集積地「ブラジルのシリコンバレー」としての側面も持ち始めている。現在ではグーグル、フェイスブック、JPモルガン、ブラデスコ、BTGパクチュアル、ショッピーなどがこの地域に拠点を構えて、金融とテクノロジーが融合する国際的ビジネス拠点としての地位を強めており、現在は市内で最も地価の高い地域の一つとなった。


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