
そのうち、敗戦派の皇室の尊厳を侵し、国家を冒瀆する言動を見聞するようになった。
天皇を穢された時は我慢できなかった。
「日の丸なんて、白い布を女房の股に当てておけば、簡単にできるサ」
と、平気で口にする者も出始めていた。
日高は仕事が手につかなくなった。
そうした時、前記の州警兵による日の丸事件が起きた。
既述の日の丸事件の時の日高の話は、この時に聞いたものである。
警兵に拘引・留置され、釈放後、日高は臣道連盟ツッパン支部青年部の中川という隊長に進言した。
「何らかの行動を起こすべきだ」
と。
が、中川は、時期が早いの、遅いの…と逃げた。
そこで、行動を起こす意思はないと見て、連盟とは遠い所に自分を置いて行動することにした。
遠い所に自分を置いて…とは「関係なく」の意味である。
青年部には、同志に誘いたい仲間が二人居たが、その親たちが支部の役員をしていたので、秘密が漏れると警戒、誘うことを止めた。
後で、その二人から
「何故、自分たちに声をかけてくれなかったのか?」
と恨まれた。
結局、連盟員ではなかった北村や山下と相談、敗戦認識運動の中心人物を襲撃することにした。
日高は、それを決意するに際して、
「戦争の勝敗を論じたことは一度もない。動機は、戦争の勝敗問題ではなかった。他の人たちも、そうであったと断言できる」
という。
右の襲撃目標や動機に関する話の内容は、押岩談に出てくるそれに酷似している。一つの世論になりつつあったのであろう。
三人は決意してサンパウロへ行くことにした。勿論、自分たちも命は捨てる覚悟だった。警官に撃たれることもある、と。
若かったせいか、死ぬことを恐れなかった。
「誰かをヤレバ、邦人社会の指導者たちが反省してくれ、混乱を収める手を打ってくれるだろう、と思っていた。
ところが、それが実際には蜂の巣をつついたような結果になってしまった」
と、日高は苦笑いした。
蜂の巣をつついたような結果とは、彼らの行動に刺激されて起きた(と観られる)多数の襲撃事件のことである。
ただ、決意した段階では、実際にはどうしたらよいのか、見当もつかなかった。
そこで、ポンペイアの横山重男という年長の知人に相談した。すると、
「そうか、お前たちが、そこまで決心したのなら…」
と協力してくれた。
横山が話を繋いだのが、前記の新屋敷である。
かくして決起者はキンターナ、ポンペイア、ツッパン三地域の十二人となった。
内八人が三十歳を超しており、多くが結婚して家庭を持っていた。四人が二十代で独身であった。
なお横山重男は、前章までに何度か登場の白石静子・悦子姉妹の叔父(姉妹の母カズエの実弟)であった。
妻子と共に白石親子と、同じ敷地内にある別々の建物に住んで、印判の製作や銃器の修理を職業としていた。
横山は戦勝派であり、地元の臣道連盟の幹部と親しくしていたが、自身は属していなかった。
「連盟には売名目的の人間も入っておる」
とも言っていた。
山下博美
筆者は、後日、日高の紹介でサンパウロで山下博美と会うことができた。
この人についても、七章で記したので、 簡単に繰り返すと、日高と同様、全く元テロリストという感じはしなかった。(澄み切っている!)と感じた。無論、人柄のことである。
少年時代は、忠君愛国教育を受けて育った。
決起当時のことを訊いてみた。
「その頃、日高、北村と、いつもそういうこと(日高が言った様なこと)を話していた。
が、警官が日の丸で靴の泥を拭ったという事件以降、自分たちの考え方が固まって行った。行動を起こす方向へ…」
と話し始めた。(つづく)