押岩の話に戻る。
「…サンパウロ以外の各地で起きた事件も『臣道連盟の特攻隊がやった』と世間は信じ込んでいる。
ワシは、真相は知らないが、そうではないと思っている。仮に連盟員が参加していても、個人としての行動と思う。
ところが、最初のサンパウロの事件の折、ポルトガル語の新聞が派手に『シンドウレンメイ』『トッコウタイ』とやり、地方で起きた事件についても同様に続けたため、世間も、そう信じ込んでしまった。
後で日本から来た大宅壮一も、その様に書いたため、向こうでも、そういうことになってしまった」
(厳密に言えば、大宅以前に高木が来ており、さらにそれ以前にも、事件の一部は日本で報道されていたが、大宅の影響が大きかったといえるであろう)
ともかく、これは極めて重大な証言だった。もし、その通りなら「連続襲撃事件は、臣道連盟の特攻隊がやった」とする認識派史観は、ガタガタと崩れて行く。
もう一つ驚いたことがある。
押岩は「襲撃を決行したことを後悔してはいない」と言ったのだ。
むしろ特行隊を誇っている様子だった。だから、臣連犯行説が定着してしまったことを不快に思い、真実を世に報せたかった…という口ぶりだった。
(大変なことになった!)と筆者は思いつつも、直ぐには納得できなかった。
押岩がどういう人間であるかを含めて、詳しく訊き直し、かつ他の関係者も取材する必要を感じた。
そのためには、押岩に関しては、この日の取材だけでは足りず、以後何度も通い、聞き取りを繰り返した。
この間…さらにその後も…彼の話や他の情報から得た手がかりを一つ一つ手繰って、サンパウロ市内を歩き回り、地方に足をのばした。様々な関係者を探し出して会い、話を聞いた。それは十数年にも及んだ。
以下、この『大騒乱』という題名の数章の記事は、その渉猟の結果である。
押岩嵩雄は一九一〇(明治43)年、広島県の農村に生まれた。
青年期、村役場に勤めていた時、ブラジル移住を思い立ち、一九三三(昭8)年に渡航した。
八年後、日本が米英に開戦した時は、サンパウロ州の中西部キンターナという開拓地で暮らしていた。
この地方は、当時はバウルーからほぼ西北西へ走る鉄道パウリスタ延長線(通称)が主たる交通手段であった。そこでその沿線はパウリスタ延長線地方と呼ばれていた。
押岩は「特行隊発祥の地だ」と表現した。
特行隊の隊員は十数人居ったが、皆この地方から出たという。
その少し前からのことを、押岩はこう回想した。
「キンターナは、現在は、日本人は僅かしか居ないが、当時は日系の植民地が多かった。棉の大栽培地だった。
キンターナの東のポンペイア、マリリアの賑わいはそのお陰と言われた。
西にはツッパン、バストスがあって、ここも日本人の大集団地だった。
ワシも棉作りをやっていた。結婚して男の子が生まれていた。妻は産後の肥立ちが悪く、亡くなった。子供は幼く目を離すことができないので、農業を続けることが無理になった。
駅前にシャレッチを停めておいて、客があれば乗せて、アチコチ案内して歩いた、子供を助手席に座らせて…」(シャレッチ=小型の馬車)
時期的には戦時中のことである。
そして終戦。
押岩は、
「敗戦報が流れた時はモノが言えなかった! モノが考えられなかった」
という。
彼に限らず、往時を知る老人たちは「思考停止に陥った」「頭の中が真っ白になってしまった」と述懐している。
筆者がそれを聞いて歩いた時は、半世紀以上経っているのに、誰もが鮮明に記憶していた。それほど強烈な衝撃だったのだ。
資料類によれば「全身の血が凍りつき失神状態になった人」「目が眩み立っていられず、座っても駄目で横になった人」「町の中をアッチに行ったりコッチに来たりしながら自分が何故そうしているか判らなかった人」もいた。(つづく)