COP30ベレン開催が決まってから、世界より環境視察団を頻繁に受け入れているアマゾン川河口の町がある。パラー州都ベレンから南西に約187km離れたトメアスー(当時アカラ植民地)だ。ここは1929年に最初の日本人アマゾン移民が到着した場所で、当時は熱帯雨林しかなかった開拓地だ。
マラリアなど風土病や、農作物へのフザリウム病の蔓延などの苦難の歴史を経て、現在は農業と自然環境を共存させる試み「トメアスー式森林農法(Safta=Sistema Agroflorestal de Tomé-Açu)」の実践の地として世界から注目を浴び、アサイーやカカオ、熱帯果物、胡椒、パーム油の生産地として世界中の食生活に影響を与える場所に変貌した。

試行錯誤のジャングル開拓
南米拓殖株式会社が日本から送り出した、189人の第1回南拓移民が1929年9月22日、アカラ郡のトメアスー橋に到着した。カカオを商品作物として営農する構想で作られた移住地だったが、彼らを待っていたのは手付かずの原始林だった。カカオ生産の前に山焼きを行い、家や畑作りをしなければならなかった。
しかし1931年、数年かかるカカオの収穫の前に、野菜栽培を始め、現金収入を得はじめた。アカラ野菜組合(現トメアスー総合農業共同組合CAMTA)を設立し、ベレンまで売りに行った。当時、ベレンでは金持ち以外は野菜を食べる習慣がなく、食べ方を教えながら、野菜を販売していたという。
カカオ栽培がうまくいかない中、マラリアや風土病が重なり、多くの開拓者はアカラ植民地を出て行ってしまった。移住開始4年目の1933年12月、マラリア罹患者は住民2043人に対し、延べ3065人を数えた。なぜ住民の人数より罹患者が多いのか。それは一人が年に何回も罹っていたからだ。
退耕者家族数を見ると、大変な現実が反映されている。1942年までに入植した総数352家族(2104人)に対し、実に78%にあたる276家族(1603人)が退耕した。
現在の農業組合CAMTAの乙幡敬一アルベルト理事長は当時のことを振り返り、「僕たちは病気で亡くなった先祖や苦労して学んできたこと、歴史の中で生かされ、感謝している」と語った。

胡椒豪邸からの転落
1933年に臼井牧之助氏がシンガポールから持ってきた黒胡椒の二つの苗が、1947年12月にはアカラ産業組合の収入項目となった。翌年の総会では、売り上げが8倍に膨れ上がった。胡椒の威力に気づき、95%の農家が一斉にモノカルチャーで胡椒を作り始め、あちこちに立派な〝胡椒御殿〟が建った。当時、ブラジル国内生産高40%をトメアスーで占めていた。
胡椒フィーバーで苦労が報われたと思ったが、60年代後半には、胡椒からフザリウム菌が見つかり、74年には異常降雨により、胡椒栽培に大打撃を与えた。鈴木耕治さん(1世)は、「ここの土地の人は胡椒が忘れられなかったから胡椒作りは続けた。それで、スペースが余るのが勿体無いから最初は、メロンとかマラクジャを植え始めたんだ」と話した。

単純な発想が未来の地球を救うことに
土地を合理的に使うことで始まった混植農業SAFTA。1974年、当時ベレンとトメアスーに事務所があった農協の理事を務めていた坂口陞さんは往復の船の道中で先住民の豊さに気づいたという。
彼らの生活は自然と共に生きるもので、彼ら自身が美味しいと思った食料の種を彼らの庭先に植えていた。決して森林伐採や焼畑をした庭ではなく、自然と共生していた。研究家で好奇心が旺盛だった坂口さんは、奥さんが切り開き手入れしていた畑でマラクジャ、マンゴスチャン、クプアスー、アサイーなど様々な樹木を植え始めた。
陞さんの息子フランシスコ渡さんは、「自然に逆らわず、自然に学びなさい。原生林があって動物は生きている。それを人間が壊してはいけない。それに近い森林農法をしよう」と父陞さんがよく言っていたと話した。
坂口さんの実験から、樹木で木陰を作ることがカカオにとって重要であることがわかった。75年、カカオ価格が高騰し始めた時、坂口さんがカカオの栽培を呼びかけるものの、過去にカカオで大失敗した経験をもつトメアスーでは、「最近きたばかりの若者が何を言っている!」と言った反論もあった。だが、坂口さんの畑を見てカカオ栽培する農家が段々増えると同時に、混植農業が広まっていった。
東京農工大学の山田祐彰教授がトメアスーの農業について論文を提出したことをきっかけに、トメアスー農法はSAFTAとして世界中から段々と注目されるようになった。

Saftaの継続を導いたジュース工場
Saftaは米や豆など1年でなる短期作物、胡椒やマラクジャなど中期作物、オイルパームなど長い年月で栽培できるものを同じ土地で栽培する農法のことだ。
トメアスーで森林農法が始まった当初、マラクジャが大量に生産された。当時、農協の理事だった鈴木さんはブラジル国内のジュース工場に足を運び、マラクジャ購入を勧めて回った。しかし、アマゾン地域の奥地にあるトメアスーから他州の工場に運ぶ過程で果物を途中で腐ってしまい商売にならなかったという。
頭を抱えた矢先、JICAの資金援助により、トメアスーでフルーツジュース工場を建てることができた。トラック4、5台分廃棄せざるえなかったというマラクジャを筆頭にアサイーやクプアスーなど果実がなんとか現地で加工されジュースになることで再びトメアスーの経済は潤うことができた。
乙幡理事長は「ジュース工場無ければ、Saftaは続けることができなかった」と話した。

トメアスー式森林農法の今
Saftaが始まって、約50年以上の月日が経つ。今日、多くの研究者や調査員と研究を重ね、今のSaftaが確立された。現在、200種類以上の組み合わせの森林農法がトメアスーで行われている。各農家の好みで畑が肥やされている。
自然を破壊しない方法に早くから注目したのはブラジル化粧品メーカーのナトゥーラ(natura)だ。ナトゥーラは2006年に農協組合に掛け合い、2008年からからオイルパームを主体としたSaftaの調査を3箇所の畑で開始した。現在ナトゥーラは、トメアスーで作られているパーム油を商品に使っている。
2035年までに、4万丁ヘクタールのオイルパームを主体にしたアグロフォレストリーを組合とナトゥーラでの目標にしている。

COP30と世界に注目されるトメアスー
今回、ナトゥーラの調査にも協力している鈴木耕治さんの息子であるエルネストさんの畑を訪ねた。鈴木さんの畑では主にパーム油を主体にしたSaftaを行っており、等間隔に胡椒、マラクジャ、アンジェローバ、アサイー、カカオ、豆科、バナナ、キャッサバなどを収穫している。
オイルパームは1回植えると100年もつ。しかし、木が成長して高くなると栽培コストが合わなくなる為、25年から30年のサイクルで伐採して植林し直す形で栽培している。12年間の研究の結果、Saftaでの成功が明らかになり、今までモノカルチャーだったオイルパームの栽培はSaftaへと移行しているという。クプアスーやマラクジャ、カカオ、アンジュローバ、アサイーなどの種も絞ってバター油や植物油脂を抽出しているという。
その他の堆肥は堆肥センターに送られ、組合員に配給している。
アンジローバは、化粧品、石鹸、シャンプーにも使用されている。また喉が不調の時に、ハチミツに混ぜて飲むこともでき、怪我した時の塗り薬としても活用できる可能性があるという。
エルネストさんは「坂口陞さんは白髪に効くと言って強い匂いをそのまま残したままオイルを髪の毛につけていた」と笑いながら話した。
鈴木さんの畑ではミツバチがアサイーの花で受粉をしている。将来的には、はちみつやプロポリスとして商品ができるのではないかという。
現在、きのこや鳥もSaftaで自然共生していけるか調査をしている。食用キノコをどのようにSaftaで栽培していくかなどシステムを開発していく予定だという。
エルネストさんは「苦労した移民から月日が経ち、今のアグロフォレストリーが築き上った。今後も調査を続け、世界に普及していけたらと思う」と語った。
アマゾンの環境にやさしい栽培農法がトメアスーにあり、実践されていることに世界から注目が集まっている。既にCOP30関連で尋ねてくる人が多いという。
また、Saftaは現在、ボリビアでも実践されており、ガーナなどのアフリカ諸国が試験補助を受けて調査中だという。(島田莉奈記者、取材・動画撮影編集)