「もう終りだよ。ジタバタせん。スペインへ行こうと夢みて日本を飛び出したわしが、ブラジルの山の中でスペイン風邪で死ぬとはな……」
彼は低く笑ったようだった。
山下や畑中が見舞いに来たとき、彼は言った。
「白いものが見える……家の壁か……わしはどこかへ行っていたらしい。この植民地をもっと大きくしてくれ。もっと、もっと大きくしてくれ」
「はい」
「向うの森も皆で買ってくれよ。わしの夢だ。……豊かになってくれ」
運平は目をとじた。
「白いものがまた見える」
放浪したい魂がスペインへ行っているのだろうか。墓標の囲りを乱舞していた蝶の群を見ていたのだろうか。
運平が死ぬとは誰も思っていなかった。大石という若者が見舞いに来たとき、家は無人だった。
「平野さん、どんな具合ですか?」
何気なく声をかけてのぞくと、運平の様子が変だった。
「平野さん!」
大声で叫んだが、わずかに唇が動いただけだった。大石に手をとられたまま、まもなく運平は息をひきとった。
しめやかに通夜が営まれ、翌日彼の遺体は新墓地に埋葬された。
「静岡県小笠郡出身平野運平
大正八年二月六日死享年三十四才」
と書かれた一本の木が建てられた。
(補)
これで平野運平の物語は終る。
これは史実である。史実を作品化する場合、「歴史そのまま」か「歴史離れ」をしてフィクションを加えるべきか、という二者択一を作者はするわけだが、ここでは事実だけを書いた。登場人物も全て実名である。
移民の歴史は知られているようで、細部になるとほとんど知られていないというのが私の実感である。それを正確に知って貰うために、作品が窮屈になるのを承知で知り得た事実のみを記した。
オットーが運平に煙草を持たしてピストルで狙撃する西部劇もどきのエピソードなど本当にあった話である。(つづく)