ふるさと巡り=北東伯の日系社会を訪ねて(8)=花嫁移民のふるさとは

ふるさと巡りの道中も、女性参加者が集まれば、たちまち「女子トーク」が始まる。トークテーマはパートナーとの出会いに関するものが多かった。
「地方での畑仕事を離れて、サンパウロに行きたいって理由から、お見合いをしたけど、結果的に自分の幸せを掴むことができた」
「夫は『お前がブラジルで待ってるから日本から来たんだ』と言い張ってるけど、私は一つも待ってなんかいませんでしたわ」
一人一人に物語がある。照れながら、幸せそうな表情を浮かべる先輩女子たち。今回はそんな先輩女子の一人から、岡谷公子さん(71歳・山形出身)を紹介したい。
「戦前、おばがカナダに花嫁移民として渡ったので、私もカナダへ移住することに憧れていました。そこで海外移住婦人ホームの小南みよ子先生のところに相談に行ったら、ブラジルの結婚相手を紹介されたの」
公子さんの1回目のお見合い相手は、パラー州トメアス在住の男性。お見合いといっても、実際に相手と会うことは出来ず、トメアス在住で男性を知る山形出身の夫婦が帰国中だったことから、男性の人柄を聞いただけで終わった。
2回目のお見合いでは、相手の両親と会ったが、本人と会う機会はなく、文通を行うことになった。相手の男性は伯国でポルトガル語中心の生活を送っており、日本語が不自由。手紙もポルトガル語で送られてきた。夫婦になった時、日本語で会話できないことに不安を覚え、断ることにした。
3回目のお見合いで、後に夫となる参男さん(みつお)と出会った。参男さんは法事で一時帰国しており、直接会うことが出来た。実際にその人柄を確かめられた安心感もあり、結婚を決意した。参男さんはお見合いが終わるとすぐブラジルに戻ってしまったので、公子さんがブラジル移住するまでは、文通を通じてお互いの理解を深めた。
「私が本当に来るか心配だったんでしょうね。手紙ではブラジルでの生活について細かく書いてくれて、とてもやさしい人だなと思いました」
1974年、渡伯。2人の子供も生まれ、しばらくは何事もなく、家事育児に励む日々が続いた。しかし公子さんが34歳の時、参男さんが脳血栓で倒れた。2人の子どもはまだまだ育ち盛り。公子さんは参男さんの看病をしながら、子供たちを育てる決心をした。
ポルトガル語が不自由な公子さんの就ける職は限られていたが、ブラジル日本語センターで日本語教師養成講座を受け、ピエダーデ日本語学校の日本語教師となることができた。1990年頃のピエダーデ日本語学校には約100人の生徒が在籍。公子さんは同校教師を9年間務めた。
公子さんが45歳の時、参男さんが亡くなった。56歳だった。参男さんの看病と子育てをする公子さんを参男さんの家族はよく助けてくれ、「非常に感謝しています」と公子さんは語る。
2000年、単身日本へデカセギに行き、熱海の介護施設で働いた。日本へ行ったばかりの頃は子どもたちへ仕送りをしていたが、やがて子どもたちも自立し、結婚。日本で働いている間に孫も生まれた。
2013年、公子さんはブラジルへ戻り、現在は長男家族と暮らしている。
「山形がふるさとだけど恋しいとは思いません。私はブラジルに来たことを後悔していませんし、むしろ来ることが出来てよかったと思っています」と笑顔で話した。(続く、島田莉奈記者)