小説=流氓=薄倖移民の痛恨歌=矢嶋健介 著=114

 家の前に車を停め、内部を覗いた八重子は、まだ帰っていないと呟きながら入口に置いてあった一束の花と線香をもち、再び車に入った。
「きっと山で待ってるんだわ。行きましょう」
「家に誰もいないんですか」
「息子はまだ学校から帰っていないみたい」
 かつて千江子と京の町から奈良の村まで一緒して、息詰るような恋情に胸を締めつけられた矢野ではあった。今、その千江子と瓜二つの八重子と同乗していても、もはや往時のような感情は湧いてこなかった。そのことが矢野の気持ちを和やかにした。
「お母さんはいい人だったね」
「私、母の生き方をよく知らなかったんですけど、帰ってきてくれてからいろいろ聞いたところでは、田島さんという方には大変世話になった、絵を描いてもらった、生け花の教授として生活できたのも田島さんのお陰だ、心の支えだった、と感謝していました。『その人と何もなかったの』と訊くと、暫くためらってから、『あってもいいじゃないの。私には誰にも頼れる人がいなかったのだし、あの人によって生き甲斐を感じていたんだから』と泣かんばかりに話してました。二〇何年も独り暮らしをした母ですから、それぐらいのことはあっても当然だ、と私は思っていますの」
 墓への道はかなり傾斜が続いている。途中、一ヵ所平坦なところで車は停まった。そこにも柿の木が二本あったが、乾燥地であるため、八重子の家のそれとは異なっていた。その根本に八重子の夫は座っていた。草刈りをしたせいで、色白の顔から汗を流し、ぐったりしていた。
「ご苦労さんでした」
 八重子は言った。そして矢野に向かって、
「ここに叔父さんの家があったそうです。両親の仲人をした人という話ですけど、一度会った時、そんな話は出なかったし、奈良の方が気に入ってずっと帰ってこないんです」
 八重子は先に立って歩き出した。薙ぎ倒された道の辺の草が青臭い匂いを放ち、道は歩きにくかった。人の踏まぬ新鮮さがあり、木洩れ日が三人の肩の辺りへチラチラと斑の光を投げかけた。振り返って眺めると、遠く下方に先ほど通ってきた部落が小さく横たわって見えた。
「いい墓地ですね。人里離れた静かな山の上で、家族だけが静かに眠れるというのは願ってもない奢りですな」

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